MKタクシーのこと

 タクシーに乗る時、運転手さんの機嫌が良いか悪いかは、たいそう気になるものだ。去る四月の中ごろのこと、私は娘一家が住む大阪へ行った。新大阪駅で新幹線を降りると、娘と孫二人が迎えにきていた。さっそくタクシーに乗り娘たちの家に向かった。

 その日はとても蒸し暑い日だった。孫二人は車内で「あつ~い!」を連発。しかし運転手さんはずっと無口で知らんふりで、私はきまずい思いをしながら到着するのを待った。

 五島へ帰る日、これから新大阪駅から新幹線に乗ると言う時、娘はいつもMKタクシーに電話する。電話のやりとりをそばで聞いていると、「すぐに配車できないので、お急ぎであればよそのタクシーをお呼びください」というような時もある。娘が「○時○分の新幹線に乗る予定なのですが」と言えば、「それでしたらだいじょうぶですから、しばらくお待ちください」といった、こまごまとしたやりとりがあるのだ。

 そのあとまた、MKタクシーから電話がかかってくることになっている。「今そちらに向かっておりますので、あと10分ほどで着きます」という。それでは、と荷物を持ち、二階から下へ降りて外へ出ると、そこにはすでにタクシーは来ていて、制服制帽、白い手袋をした運転手さんがにこやかに車のそばに立っているのだ。

 さぁどうぞ、と助手席の後ろ座席のドアを開けてくれ、キャリーバッグを運んでくれるのもさわやかな所作だ。所帯づかれでくたびれたおばさんを、まるで貴婦人のごとくに扱ってくれるで、おばさんは大恐縮。

 さっそく「車内の温度はこれでよろしいでしょうか?」と訊いてくれるのもうれしい。感じがいい!ってこのことね、と言いたいくらいだ。私は調子に乗ってついついインタビューしてしまった。

 Mkタクシーは京都が創業の地なのだそうだ。今では大阪をはじめ近隣の県に進出し、福岡にもミセを出したという。そして驚くべきことに、入社すると二週間というもの、接客マナーに関して特別な研修を受けるのだそうだ。新入社員にお給料を払いながら、たいそうな時間をかけて接客マナーを徹底させるというのだ。

 4月29日の日経新聞に「タクシー運賃 国の変更命令 福岡地裁も差し止め」の記事があった。“国が4月に定めたタクシー運賃幅の制限は不当だとして、格安タクシー会社の福岡MKなど2社が国に対して運賃変更命令の差し止めを求めた仮処分申請で、福岡地裁は28日、2社の差し止めを認める決定をした”とあった。

 福岡MKの青木社長は「運賃制限は割安なタクシーを求める消費者の目線に合わない。裁判所は正当な評価をした」と話したそうである。

 タクシー運賃が安くなるのは結構なことだが、私にとっては、運転手さんが機嫌よくしてくれているのがよほどうれしい。私はすっかりMKタクシーファンになってしまったのである。

  

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この香りに魅せられて

 三年くらい前のことだけれど、娘の家族と共に佐賀県は嬉野(うれしの)にある旅館に泊まったことがあった。部屋に通されると、そこはかとなく、かぐわしい匂いが立ち込めているのに気がついた。

 え~これなんの匂い~?見回してみれば床の間に置いてある小さな香炉からそれは発しているのだった。

 さっそくフロントに行き訊いてみると、お茶の葉っぱを焚いているとのこと。そして香炉はすぐ近くの1000円ショップで売っていますよ、とのことだったので、急いで見にいったら、ブタの蚊取り線香入れ、みたいのしか売っていなくて手ぶらで帰ってきたのだった。

 家に帰ってネットで見てみると、香炉のお値段はピンからキリまで。数千円から数万円までさまざまだ。沢山ありすぎて困るよな~と、陶芸をやっている友達にメールしたら、「団栗(どんぐりと読むそうで、私は知らなくて、ダングリって何?と訊いてしまった)の形をした香炉を焼いて持ってるから、それを差し上げます」と嬉しい展開になったのだった。

 それ以来、私は時々お茶の葉の香を焚く。ココロがささくれだっているような時には、とくにいいのだ。30個で700円くらいの小さなキャンドルは4時間くらい持つので、その炎をながめながら日記を書いたり何か読んだりすれば至福の時間となる。

 当然のことながら、お茶の葉は、お葬式に出て貰ってくる葉っぱよりも、ちゃんとした煎茶や玉露のような、高級なお茶のほうが香りは断然いい。そして炎で熱せられた葉っぱを捨てるにはしのびなく、急須に入れて飲んでみると、まごうかたなくほうじ茶の味で、お店で売っているものより、はるかに美味しいのだ。

 こんなおたのしみがこの世にあったとはー。香道をたしなむというと、高貴な御身分で、しかも経済力のある人々がするもの、と漠然としたイメージがあるが、お茶の葉っぱでお手軽お気楽にたのしめるのだから、こんなにうれしいことはない。

 団栗(どんぐり)の香炉は焼きが甘かったのか、残念ながら割れてしまったので、今のところは近くのホームセンターで買った700円くらいので間に合わせている。このあいだ博多駅の東急ハンズで見てまわったのだが、なかなかこれは、というものはなかった。私が欲しいのは多分何万円もするものかしらねー。

 母の日に何か欲しいものは?と子供たちから訊かれて、私はさんざん頭をめぐらし考えたすえに、「欲しいものは何もない」と答えたのだった。「香炉が欲しいですー。何万円もするやつ」と言えば良かった。もう遅いか、、、。

 

 

 

 

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代官山に行ってきました

 先日、次女の結婚式のため上京した。式は港区にある芝大神宮という所で行われた。なんでも格式の高い神社だということだった。式が始まるまで待機していた私たちの前には、うす紅色した桜茶と小さな落雁が2個並べられていた。

 そのうちに現れた花嫁姿の娘を見て私は驚いた。白っぽい内掛けを着て、頭の方はというと、長い黒髪を前方片側に垂らし、その反対側の頭にはカサブランカの大きな花飾りが、、、!一ヵ月ほど前のメールで「こんな髪型でどうでしょう?」と写真を送ってきたとき、私はてっきり、それはドレスを着た時の髪型だと思っていたのだった。なぜキリリと日本髪を結わないのだ?これが今風東京風と言われても、上と下がマッチしていない和洋折衷みたいな組み合わせは私の常識の範疇にはない。

 なんとまぁ(アチラのお母様はなんと思われたかしら)と呆然としているままに一連の行事が終わり、では神殿の方へと言われて私は慌てた。まだお茶もお菓子もよばれていないのだ。誰もどうぞと勧めてくれないものだから手を出さないでいた。 近くに立っている巫女さんに「このお菓子を頂いて行きたいのですがー」と言うと巫女さんは「どうぞ、花嫁さんの分もどうぞ」と言ってくれたので、わたしは大急ぎで(皆の分まで)下に引いてあった懐紙に包んだ。

 首尾よく式がすむと、披露宴は代官山のフレンチレストランで行われるので、はるばると大移動。どうしてこんなに遠いところを選んだのかなと、内心思っていたのだが、あとで娘からの手紙によると、どうしても代官山の“ポールボキューズ”というレストランでやりたいというこだわりがあったのだそうだ。

 そこで私は初めて、カイシャの披露宴を経験することになった。娘は同期入社の彼と早々と結婚することになったので、同じ会社の上司やら同僚やらがワ~ンとむせるばかりにお出ましになっていたのだ。親族はほんの付け足し。これが五島だと“お父上のご友人”や親戚関係が席を連ねることになるのだけれど。

 それが終わると今度はまた品川のホテルまで移動。ホテルで式と披露宴と宿泊をワンセットにすれば移動せずにすんだろうに、と思わないでもなかったが、車の窓からいろいろ眺めるだけでも楽しかった。

 噂に聞くところによると、代官山というところはセレブな人々が住んでいる所らしい。日本ではめったに見られないようなシックでハイソでエレガントな、素晴らしい街並みがつづいているのだろうか。車窓からしっかりウォッチングしていると、高価そうな犬を連れ歩いているマダムを見た。まるで二階建てのような大きな乳母車を引いている外人さんも見た。おしゃれで瀟洒なお店。ただし街路樹の根元が草ボーボーなのを見ると、さほどでもないような気がしてきたのだった。

 家に帰って財布の中を整理していると、次女が小学一年生のときにくれた肩たたき券が出てきた。こんな小さな紙片はすぐになくしてしまうからと、ずっと何年も財布にいれたままだったのだ。大学へ行ってからは帰省したときに肩を叩いてもらうつもりでいたが、帰ってきてもバタバタとするうちに忘れてしまい、ついに肩をたたいてもらう機会はなかった。

 芝大神宮で頂いてきた「幸福」と書いてあるお札。(宮司さんが、念を入れて祈念してあります、と言っておられた。)このお札と肩たたき券とをセットにして、もう一生このまま持っていようと、また財布に入れたのだった。そして我ながらオバサンみたいでイヤだなと思いながらも、かき集めて持ち帰った落雁を熱いお茶で頂いた時、あぁこれで一件落着だと、ホットしたのでありました。 

 

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京都 嵯峨野の祇王寺へ

Image  瀬戸内寂聴さんは五島にも講演にきたことがあり、私も聴きにいったのだが、どんな話だったかはまったく覚えていない。記憶に残っているのは「私は人寄せパンダです」と言われたのがおかしくてちょっと笑ったことぐらいだろうか。

 友達に寂聴さんの大ファンがいる。私は彼女の持っている寂聴さんの講演のCD12巻を借り受け、炊事をしながらぼちぼち聴いた。

 その中で寂聴さんは、40年ほど前に書いた『女徳』という小説にふれていた。それが今頃になって外国でも読まれるようになり、寂聴さんはイタリアまで講演に行ってきた、というのだ。

 私も30年ほどまえ、この小説を読んだことがあるが、全編これラブ・アフェア、手かえ品かえ色事の連続といった調子で、読むほどにうんざりしてきて「もう返さなくていいです」と言って誰かにやってしまったことがあるのだ。

 『女徳』の女主人公がどんな人かというと、仮に千代さんとでもいおうか、奈良の貧農の娘だったのだが、器量よしであったことと、頭がよさそうなことから、大阪の置屋へ売られてしまったのだった。

 花街の流儀に従って気に染まぬことどもをこなすうち、15歳のとき、ある男への腹いせのために小指を三味線の糸できりりと巻き上げ、自分でその指を落としたのだった。その落とした指をハンカチで包み、雪の降るなかを走ってくだんの男のもとへ行き「これ、あげまひょ」と言って差し出したのだった。

 その事件のあと、15やそこらで、そういうことをするとは空恐ろしい女だ、とそれまで売れっ子だったのが、たちまちお呼びがかからなくなってしまった。それではと東京へ行ったら「面白い女だ、いっぺん見てみたい」と引っ張りだこの人気者になったそうで、その美貌によりブロマイドなどももてはやされ大活躍だったそうだ。

 その後、結婚したり離婚したり、お妾さんになったり、ある男についてアメリカへ渡ったり。また別の男とフランスへ行き、かの地では堕胎が許されないので生まれた子供を孤児院に置いて、自分一人で身軽になって帰ってきたり。また大阪へ舞い戻ってバーのマダムになったりとさまざまな遍歴をしたのだった。

 そのうちだんだんと、千代さんはそういう生活に倦みつかれるようになった。もともと大変な読書家で、寝るときには枕元に本を積み上げて寝るような人であったのだ。また俳句を詠み、虚子に認められた優等生だったのだ。小指を落とした女の俳句はなにかしらご利益があるとして、千代さんが短冊にさらさらと俳句をものすれば、高価で売れたのだと言う。

 39歳のとき千代さんは「この黒髪があるから女としての苦労が絶えないのよね」とて髪を下ろし智照尼と名乗り、祇王寺へ入ったのだった。

  墨染めの わが初すがた 萩のまえ  (智照尼)

 10月27日のこと、私は娘と孫と三人で、京都駅より山陰線に乗り、嵯峨嵐山下車、タクシーで五分の祇王寺へ行ってきた。まだまだ紅葉の気配はなく、もみじはまだあおあおとしていた。祇王寺は平清盛までさかのぼる由緒ある寺だそうだが、なにぶんにも、、、古い。仏像が祀られている畳の部屋へ上がって拝んでもよろしい、というような書付があったが、畳はざらざらとしているようで気後れがしてその気にはなれなかった。寂聴さんによると、その六畳くらいの仏間に、智照尼さんの亡骸が横たわっていたことになるのだ。智照尼さんはちゃんと辞世の句も用意していた。

   露の身と すずしきことば 身にはしむ  (智照尼)

 そしてこの尼さんの物語は、小説がヒットしたことから、映画に舞台にテレビに舞踊にと、次々に取り上げられ、女優さんたちは競って出演したがった、ということである。傾きかけていた祇王寺もみるみるうちに整えられ、豊かになったということだ。

 そうそう、この尼さんが出家するとすぐに、剃っても剃っても毎日伸びてくる頭の髪を剃ったり、俳句の販売係をやってくれたりする男性が現れ、尼さんはどこまでいっても女徳にあふれた人だったらしいのである。

 

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多久のスズメは論語をさえずる 多久聖廟

Pict0031 台風が来るまえの大変に暑い日に、佐賀県多久市にある多久聖廟へ行った。そこには青銅で出来た孔子像が祀られ、学問所などが点在していた。

 孔子が唱えた学問が儒学と呼ばれ、孔子の言行録は孔子の死後「論語」という書物にまとめられたものだそうである。 多久の殿様は領民を治めるのに、武力ではなく、学問教養をつけることで首尾よく治めようとしたのであった。学問所では武士、町民、水呑み百姓のせがれを問わず、誰でも肩を並べて勉強することができたということである。

 それ以来伝統的に、多久では論語の勉強がさかんで、その日も小学生のための論語教室が開かれることになっていたのだが、それにはちょっと時間が早くて、子供たちのさえずる論語は聴くことはできなかった。それにしてもスズメが論語をさえずるほどに、多久では熱心に論語を暗誦する人々がいたということなのだろう。

 さて私は土産物店で「論語かるた」を買おうか、と思ったのだけれど、いまさらこんなややこしいことを、、、という気がしてきて、代わりに「論語ひめくり」というのを買った。これなら31日分ですむというものだ。今日(8月13日)のお題は “見義不為 無勇也”(義を見て為ざるは勇なきなり)つまり、正しいことをしなくてはならない時にひっこんでしまい、行わないことは卑怯である、ということだそうだ。

 白川静著『孔子伝』には孔子が陽虎というライバルを嫌い、陽虎のいる土地から逃げ続けた、というエピソードが書いてあるそうだ。普遍的な人間の道を求め、大思想家と言われる孔子先生だけれど、人間らしい側面があったようで、自分の人生をこなすのには、結構てこずっていたのではないかと、私は少々ほっとしたのだった。こうあるべき、かくあるべきと偉そうにしていらっしゃるけれど、なんだ私たちとあまり変わらないんじゃないの?とひそかに思ってしまうのだ。

 

 

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高台寺 ねねの小径

 Pict0133_3                                               去る11月11日、京都にある秀吉の正室 寧々ゆかりの寺 高台寺へ行った。その日、京都は朝からずっと雨が降っていたそうだが、私たちが着いた夕方にはすっきりと雨も上がり、すばらしい景観を味わうことができた。

 寧々が大阪城を出て身を寄せた寺はひそやかなたたずまいの小さな尼寺であろう、というイメージをもっていたが意外にも、堂々たる、かつ優美なお寺であった。家康のてこ入れもあったであろうが、よほどの健脚の持ち主でなければ一通り見て回ることはできそうもない規模の立派な造りであった。

 高台寺のライトアップはきれいですよ、と以前から聞いていたのだが、噂にたがわず照明はすばらしく、竹林のライトアップなどはオォ!と息を呑むほどであった。(けれど残念ながら写真はうまく撮れず、かわりに地下鉄難波駅構内の水槽の魚の写真をアップしておきます(-_-;) )  ただ一ヶ所、それは石庭であったが、街中のネオンサインを思わせるようなヘンな取り合わせの照明があって、これはイタダケナイナーと思っていたところ、周りの人たちからも、興ざめ~~という声があがっていた。

 秀吉と寧々が尾張弁でふつうに話していても、周りの人たちはけんかが始まったのかと思うほどのけたたましさであったそうだが、二人が本気で夫婦喧嘩をやりだすと、近隣に響き渡るほどの怒鳴りあいになったという。しかし寧々はいざ戦さとなると、借金をしてまわり、戦費を調達した。なんでもどうでも戦さに負けるわけにはいかないのだ。寧々は何もないところから豊臣家を興し、夫の立身出世をサポートした大功労者であったのだ。

 それなのにそれなのに、大阪城は淀君とその息子に乗っ取られたも同然で、糟糠の妻は顧みられず、わりの合わない思いの寧々であったろう。

 掌美術館というところには華やかな文物が様々と展示されていたが、その中で私の眼を引いたのは、寧々がはいていた物かもしれない、という白い足袋であった。それは絹でできているようだったがいささかうす汚れていた。けれどそれは妙に生々しく、寧々という女性がこの世に実在し、あの戦乱の時代を生き抜いたのだ、と納得させるのに十分な迫力があった。ふつうの家に生まれた、なんでもない一人の女が北政所と呼ばれるようになり、この世の栄華も悲惨さもつぶさに見たのであろうと感慨を持った。

 けれども豊臣家の一族が全滅していくなか、家康の手厚い厚遇を得て寧々は生き延びることができたのである。秀吉も死後この寺に祀られ寧々はその冥福を祈りながら亡くなったということである。あの世では秀吉も奥方に頭が上がらないのではないだろうか。家康よりも長く生き、享年76歳であったという。

 寧々が万感の想いを抱いて歩いたであろう道(ねねの小径)があると聞いたけれど、私たちにはもう時間がなくて高台寺をあとにした。今度は夜ではなく昼間の明るい時間に、ゆるゆると見て回りたいものである。週末でもないのに人出は多くて、立ち止まっているゆとりもなかった。なんだかよくわからないうちに押し出された、ような気分だったのだ。

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背中があつくて困りました

 Pict0004_2  四月17日から20日までマゴに会うために大阪まで行ってきた。さて今度はどんな持ち物にしたらいいのだろう。とりあえず長崎まではキャリーバッグをひっぱり、着いてからは友達と数軒の店をまわり、手ごろなリュックを探した。というのは私のキャリーバッグは頑丈なのはいいが、重たくてしょうがないのだ。エスカレーターなどでヨイショと持ち上げるときにとても重たい。それにしばしば置き忘れる。

これなら、と思うリュックには赤、黒、ベージュ、の三点があった。さぁどれにしようか。友達の助言もあって、私は赤(少々黒い部分もある)のリュックを買うことにした。というのはもう黒やらベージュやらうんざりしてきていたのだった。衣類の引き出しをあければ茶系統や黒やグレーの服ばかりで、今まではこれがシックでよろしい、と思っていたのだが寄る年波のせいか、いささか反動があらわれたのか、だんだんイヤになってきたのだ。

キャリーバッグは友達に預けることにして、中身を赤いリュックに詰め替えた。キャリーを引っ張って行くのとどっちがラクチンだったろうか。小さな子供の手を引いて歩くのとおんぶして歩くのは、おんぶするのが断然安全安心なように、人混みの中ではやはりリュックのほうが歩きやすかったように思う。

ところでこの頃のヤンママは、家の内でも外でも赤ん坊をおんぶなどしないのだそうですね。おんぶしないでどうして家事が片付くものかと私は思うのだが、よほど要領がいいのだろうか、さもなくばろくに家事をしないのだろうか。

さてリュックをしょって歩いた大阪は日中とても暑かった。街中はまるで真夏のような暑さで、リュックを背負った背中は熱くてしようがなかった。暑い時のリュックは考えものだなー。軽くて明るい色のキャリーバッグを探してみるかな。

さておみやげとして、マゴには平山和子作『イチゴ』という絵本。ムスメには俵 万智著『かーかん はぁい 子供と本と私』を持っていった。訊いてみるとマゴは保育所では絵本を読んでもらうのが大好きらしいのに、家ではなんにもしていないというのだ。ムスメは1年たって仕事に復帰したのだが、子供に本を読んでやる余裕がまだないらしいのだ。

そんなんじゃダメでしょ。ほらこの本読んで。万智さんみたいな才媛と同列にはいかないと思うけど少しはマネしてみたら?万智さんによると、1才の男の子でも雑誌のグラビアのかわゆい女の子をじーっと見入っていることがあるそうだ。赤ん坊だと思ってあなどるべからず。

忙しいなりに親子三人で仲良く暮らしているようなので、安心して、こんどはリュックを忘れることなく首尾よく帰ってきたのでした。

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技芸天は紀子様似?

021 奈良は秋篠寺に行った。本堂にはあまたの仏さまが鎮座なさっていたが、一番の人気は技芸天という優美な仏さまで、タクシーの運転手さんはたしか「ふくよかなところが紀子さまに似ておられまして」と言っていた。

なんでも衆生の吉祥と芸能を主宰なさるので、芸事の上達を願う人々がお参りに来るのだそうである。一応天女とされているが、頭部は女性的、首から下は男性的な摩訶不思議な仏さまなのだった。

お庭は一木一草にも人の手が届いているのが感じられ、もみじの紅葉も素晴らしかったが、萩の黄葉もまた良かった。7~8メートルもあろうかと思われる紅と白のさざんか、分厚い絨毯をしきつめたような苔、これが本当のモスグリーンという色なのだろう。

あらら、お庭の一角にくちなしの木が、、、。黄色いようなオレンジ色のような実をたわわにつけて。じつはくちなしの実を探していたのよね。というのはさる方のブログで“大根の甘酢漬け”というのを拝見したのだが、その大根をほんのりくちなしの実で色づける、と書いてあったので、どこかにないかな~とアンテナを張り巡らしていたところだったのだ。

それで畏れ多くも、ほんの3個だけ、頂いてくることにした。どこからかお咎めがあるとは思わないけれど、このことはオフレコにしておいて下さいねー。

ところが昨日のこと、近くのお寺さんの掲示板を見たら、ご住職さまの達筆でこう書かれていた。

“みてござる いつでも どこでも みほとけは”

なんだそうなんだ。緘口令をしいたところでほとけ様はすべてお見通しだったのか。斑の美しいアイビーを5センチほどとか、ゼラニュームの白い花の咲いているのを少々、断らずに頂いてきたりしたが、ぜ~んぶほとけ様に見られていたというのねー。

ところでこの頃聞いたのだが、知恩院のエライお方が、大金をごまかしていたそうだけれど、ほとけ様がいつでもどこでも見てござる、ということをご存知なかったのだろうか。

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きよみずで おしあいへしあい もみじ見る

001 011 この3連休は京都奈良をめぐったがそれはそれは大変な人出で、道路という道路は人と車であふれ返っていた。車は遅々として進まず、ならばいっそのこと歩きましょう、とて歩いたら、半日で2万歩も歩いた。(最高記録なり)

お上品な靴など履いていたら歩けなくなってしまって、同行三人、どうしても遅れをとるので、途中でウォーキングシューズを買って履き替えたら、あらら、たちまち元気になって追いつきましたわぁ^^

 なんだか若い女の子が多いなー。結構勾配のある道だというのに、ヒールの高いのを履いたりして平気な顔して歩いているのには驚く。なんと赤ちゃんを抱っこしてヒールで歩いてるコもいるじゃないの!これこれ、危ないよと言ってやりたくなる。

東福寺と金閣寺を大急ぎで見学したあとは念願の清水寺詣で。6時半からライトアップされていてそこも沢山の人の流れ。あのお饅頭食べたいなー、と思っても行列、ソフトクリームおいしそう、と思っても行列。

舞妓さんたちを見かけたので写真をお願いした。前と後ろから全体を撮ったはずなのに、何故か首尾よくいかないのはどうしてかしら、、、?

やっとのことで大舞台にたどり着いてもそこも人、人、人で大混雑。ちょっとちょっと、前に出させてよねーと強引に前に出る。ワァ~!やっぱりきれいねー、ずいぶん高い所にいるのねー、はるばるとやってきた甲斐がありましたー!さ、写真を撮らなくちゃ、とてシャッターを押すも、ヘンなのばっかり写ってた。

トイレに行きたいなー、と行列に並んでいたら、、、T が「あっちは空いてるよー」と教えてくれた。あっちって男子トイレのことですね。エーッどうしよう(花も恥らうなぎさちゃん!)といささか迷ったが、都合のよろしいことに着てるものはゴキブリ色だし、、エイッと帽子を目深にかぶって突撃~~!

まなじりを決して来てみたらすでにおばさんが3人くらいいて、どうということありませんでした。さすがに若いコはいなかったなー。これくらいのおばさんになるとこんな芸当も出来るのね!

久しぶりに人、人でごった返してる所で揉まれて大変だったけれど、なんだか“気”を貰ったような気がするねー、と言い合ったことでした。それにしても足腰達者じゃないとこういう所へは来れないわけでして。健康にしていてまた清水へ来たい、と下りてきたら、そこにはまだまだこれから上がります、という行列が続いていたのでした。

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あこがれの大観峯に今来たり

Aso_028_2 阿蘇はいいなぁ~、360度のパノラマを楽しめる大観峯に着くと、高浜虚子の句碑が立っていた。“秋晴れの大観峯に今来たり”

それで私もすぐに一句 ができた。 “あこがれの大観峯に今来たり” 

 この前阿蘇に来たのはいつだったかと考えてみたら、はるかかなた30年も前のことだった。あれから苦闘の幾歳月、ようやくまたここに立つことが出来た。

見るべき所が多すぎて、困ってしまったのだが、まず初日は「高森湧水トンネル公園」「阿蘇の大火口」「風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館」を楽しんだ。

二日目は「清和文楽館での人形浄瑠璃」「リンゴ狩」「野草園」と温泉。

三日目。「榎木孝明さんて素敵!」で盛り上がっていたら大分・九重町に榎木さんの美術館があるのがわかった。高千穂峡に行くか、アコガレの君の方へ行くか、、、迷った末にアコガレの方へ。

あちこちの道の駅での買い物も楽しくてついつい買い込んでしまったのだが、お宿に着いてシミジミと眼鏡をかけて眺めてみたらなんと。

ドライフルーツのイチジクはイラン産、巨峰のレーズンはチリ、ブルーベリーはアメリカ、梅は中国、マンゴーはフィリピン、etc でありました。

それにしても楽しい旅だった。阿蘇の火口に着いた時、有毒ガスが発生してるからダメー!と警備員のおじさんに押し返されそうになったのだけれど、「写真を一枚だけ!」とオネガイしたら「一枚だけですよッ」なんて怒られながらも貴重な一枚をパチリとしたら、残念ながら写ってなかった。こうも押し強くなれるのはブログに載せなきゃという一念か、それとも美貌のせいかしら、、、。なぁ~んて。

そうそうこんな事もあった。寄り道したせいで道を間違えたらしく、牛のウ○コがボタボタと落ちてるような道に入り込んでしまった。しかも大きな牛が悠然と通せんぼしていて、誰かが「ステーキにするぞー!」と叫んでも微動だにせず、牛のお尻のすれすれのところをすり抜けたこともあったよね。こういうことが忘れ難い思い出になるのよねー。

数えてみたら11食も人様の作ったものを食べたことになる。食べるだけの人ってこーんなにラクチンなことだったのねー、やっとわかったぞ。けれどいろいろなことを見て学んだこともたくさんあった。やはり旅っていいもんですね!

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