マイブームは佐々木常夫さん

Photo 佐々木常夫さんの『働く君に贈る24の言葉』という本を読んで、『運命を受け入れる』という記事をブログに書いたのは4年前のことだ。いい本だからもう一度読もうと思いながら忘れてしまっていた。

 そして先日、日経プラス10を見ていたら(私はキャスターの小谷さんファン)そこに佐々木常夫さんが出演しているのを見てブームに火がつき『ビッグツリー』などの他の本も読んでみた。

佐々木さんは今ではワークライフバランスの第一人者として、あちこちから講演の依頼があって八面六臂の働きぶりなのだが、そうなるまでには人知れぬ大変な道中があった。

 佐々木さんの奥様はさまざまな要因からうつ病になり、何年ものあいだ家事も育児もできなかったという。40数回にわたる入退院。自殺未遂3回。医療費もかさみ年間数百万円かかったという。

 一方ではご長男は自閉症で目が離せない状態だった。ふつう妻が元気だったら、家のことも子供のことも奥方にお任せで、自分は仕事に没頭できるのだろうが、佐々木さんにはそれが出来なかった。朝は五時半起床で三人の子供たちの朝ごはんと弁当を作る。自身も7時には家を出て八時には出社。夕方6時には子供たちの面倒をみるために会社を出ねばならなかった。ご飯炊きも洗濯も家事一切が佐々木さんの肩にかかっていたのだ。

 佐々木さんは二週間分の献立を冷蔵庫の横に貼っておき、それをながめては買い物の予定を立てていたという。常にノートを携帯し、あらゆることをメモし、無駄がないように効率よく動くことをモットーとしていたのだそうだ。

 家のことばかりではなく、佐々木さんは会社でも一人前以上に働いた。私は佐々木さんの『そうか、君は課長になったのか』という本を読んだ。佐々木さんは課長になると、過去一年間、部下がどんな仕事を何日かけて実行したかを分析したというのだ。昨年度の「業務報告書」をもとに、すべての担当者がどのような仕事をどのくらいの時間をかけてやったのかを調べ上げたのだそうだ。

 それで部下の力量はすべてお見通し。それからは業務ごとのプライオリティを明確にしたうえで、部下に業務を始める前に「計画書」を提出させることにした。私は会社勤めの経験がないのでよくわからないのだが、こんな上司を持ったら大変だろうなーという気がした。が、佐々木さんはのんびりと残業している訳にはいかないのだ。自分も部下も定時に退社できるよう、「計画性、効率主義、それを実践する」という三本の柱で乗り切っていったのだった。

 それにしても、佐々木さんは実に偉大なことを成し遂げた。長く暗いトンネルから一条の光明が差し込んできて奥様はだんだんと良くなりはじめ、10年目くらいに「今日は私が夕飯を作りますので」という電話がかかってきた。そしてある雑誌のインタビューの席で奥様は「この人(夫)からは実の親にも勝る愛情をいただきました」と述べ感謝されたのだそうだ。

 佐々木さんの本を読んで気がついたのは、私自身の計画性のなさ、ということだった。 外に仕事に行くでもないのに家のことだけでネをあげているこの頃。佐々木さんを見習って、計画的に、効率よく、今 与えられた仕事に全力を尽くしてみよう。今からでも遅くはない、自分で自分に計画書を出すことにしよう。

 

 

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見て見ぬふりをし、感じても感じないふりをする

Img_20150126_150913 私は精神科医の斎藤茂太さんの著作を少しずつ読んできた。茂太さんが亡くなったと聞いたときには、実の親と別れた時と同じくらいさびしく感じたものだ。

 今は土曜日の夜、九時前に放送される茂太さんの『いい言葉はいい人生を作る』をビデオにとっておいて見るのを楽しみにしている。

 

 先日の放送「夫婦の仲は、、、」はたいそう面白かった。茂太さんが言うには、家族関係は船旅に似ている、というのだ。(茂太さんは大型船でのクルーズが大好きだった)

 船旅で一緒になった人々と折り合って暮らすのはなかなか大変なことだ(そうだ)。いったん組み合わされると、もう逃げ出すことはできない。「やれやれ、いやんなっちゃうよー」と外へでればそこは大海原だ。

  家族の関係も一緒だ。離婚でもしないかぎり、組み合わされた人々となんとかうまくやっていかねばならない。そこで、‟見て見ぬふり、感じても感じぬふりをする”というウルトラCの技術が必要となる。

 しかし、見ても見なかったことにし、感じても感じなかったことにする、ということは簡単そうにみえて実は難しい。私たちはどうだろうか。日々の暮らしのなかで、見なかったこと、感じなかったことにして、心に決着をつけるまでに、一時間かかったり小半日かかったり、一か月かかったりするのだ。どうかしたら何十年前のことでも、見ました、感じました、と忘れられないでいることも多いのだ。

 しかし、何事が起きてきても、瞬時にスルーさせることが出来るようになったら、それは人生の達人であると言えるのではないだろうか。

 さて、近々わが島に『飛鳥Ⅱ』が寄港することになっている。飛鳥Ⅱに乗って世界一周の旅に出る、ようなことは生涯なさそうな気がするので、その5万2千トンの船の雄姿を「見るだけは見に行こう!」と思っているところだ。

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今うとまれる歳になり

 図書館で『カミさん川柳』という本を見かけたので借りてきた。身に覚えのある句にであうとつい笑ってしまう。

 

   食卓に並べる前にかなり食べ

   冷蔵庫二歳の息子が足で閉め

   誰くるの?ぞうきんがけに子がたずね

 

   美しい人に夫が会釈する 

   たのしそう 何か買ったね おかあさん

   「無理するな」と夫次々用を言い

 

 さてわたしは断然この句が気に入った。

   朝ごはん やれ昼ごはん 夕ごはん

 

 選者のみつはしちかこさん(そのムカシ、小さな恋の物語、ハーイあっこです、などよく読んだものだ)はこの句に次のような評をよせている。

 ❝「やれ」が効いていますね。子供たちがお休みだと、お母さんは急に忙しい。くるくるとご飯の支度におわれているお母さんの姿が浮かんできて、大変だよねー。同情したくなります”

  そうだ、まだ若い母だったころ、たしかに長期の休みに子供たちの三度のごはんに追われ、早く学校が始まって欲しいと願った日もあった。

  だが私はこの句には、何十年ものあいだ倦まずたゆまず、ごはん炊きにはげんできた老いた女のふか~い疲労感を感じるのだ。一日に二食だった時代もあるそうだから、うちでもそうしたい!なんて思っていないだろうか。それがこの「ヤレ」によく表れているような気がする。

 さて次の句は衝撃的だった。

   うとんだ日 今うとまれる歳となり(三重 岡田政子)

 

 ごはん炊きに追われる日々というのは実は人生の華とでもいうべき、うるわしい時かもしれない。人はやがて老残の身をさらす時が来る。100回も同じことを言い、ついさっき食べたご飯のことも忘れ、排せつ問題もあやしくなってくれば、さんざんご飯を食べさせてやった子供たちでさえ、だんだんと疎ましく思うようになるだろう。

 このところ健康寿命という言葉をよく聞く。あの世に旅立つ日まで元気でいられたらいいのだが、そううまくはいかないようだ。日本人は平均して10年ものあいだ、病気になったり、入院したり、介護が必要になったりして人手を煩わせているというのだ。そのためにかかる費用が30兆円。10年は長い。寝付いたら、せめて三日くらいでご臨終となってあらまほし。

 男性の投稿もあり、そこはかとないユーモアが微笑ましい。

   かすがいの犬も出かけて間が持たず

   ペラペラとしゃべるが尻には紙おむつ

   満点の妻でないからくつろげる

   押し売りが来たので妻を呼びに行く

   お眼鏡にかなった嫁だが曇ってた

 

 シメにわたくしの句をひとつ。

  日に2食 提案するも却下され    なぎさ

 

 

 

 

 

 

 

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焼くな 埋ずむな 野にさらせ

 “ 我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ 痩せたる犬の腹を肥やせよ”

 (もし自分が死んでも、焼いたり埋めたりしなくてよろしい。野に放り出して痩せ犬に喰わせてやってくれ)

 この過激な歌を詠んだのは小野小町だ、というので私は驚いた。小野小町といえば、高校のときに習った 『花の色は…』で有名な歌人で、美女の誉れ高いエレガントな貴婦人、というイメージを持っていたのだから、おや小町さんはヤケクソになっているのだろうか、いったいこの歌はどうしたことだろうかと、たいそう気になったものだ。

 図書館で調べてみたら小野小町の研究書といったら数え切れないほどある。司書の方に選んでもらって、そのうちの3冊ほどを県立図書館から借りだしてもらった。

 小野小町という人は確かに実在したのだが、その実像は伝説の靄にかすんでいるという。清少納言や紫式部などの時代よりもっと前の、平安初期の人で、任明天皇の更衣だったのではないかと言われているそうだ。更衣といえば、帝(みかど)の後宮のなかではいわば末席の身分で、大部屋を几帳か何かでちょっと仕切ったくらいの部屋を与えられる程度だったらしい。

 その彼女が宮廷で行われる歌会に召され、だんだんと評判になっていった、というのは、彼女のたぐいまれな美貌と、歌を詠めばその抜群のセンスで、人々をうならせる才気と教養があったためらしいのだ。しかしその大胆な詠みっぷりは物議をかもすことになる。

   いとせめて 恋ひしきときは むばたまの 夜の衣をかへしてぞ着る

   思いつつ 寝(ぬ)ればや 人のみえつらむ 夢と知りせば さめざらましを

 更衣という身分で人を恋うる歌を詠むとなると、その対象は帝になるわけだから、まわりでは、「帝に向かって畏れ多いこと、非常識よっ」という声もあがれば、「それは別の男、きっと昔のイイ男よ」とか「仮想のオトコじゃない?」 「とりすましているけれど、あれで結構好色なんじゃないの?」などとあれこれ噂し、想像の羽根を伸ばしては言いたい放題で楽しむのだった。

 『出る杭は打たれる』というのだから、打たれないように、これからはでしゃばらずに引っ込んでおきましょうと、ひるむような小町ではなかった。皮肉のひとつも言われれば、すかさず返歌で応酬するというのが小町流。その時代では考えられないような積極性で恋の歌を詠み、選ばれて『古今集』にも収められたのだった。

 しかし、ねたみやらやっかみやらで、うるさいながらも華やかな宮廷生活は長くは続かなかった。帝がにわかに崩御なさったのだ。となると後宮の者たちも総入れ替えが行われる。小町もまた更衣の身分を失いハーレムを出ねばならなかった。

   わが身には 来にけるものを うきことは 人の上とも 思ひけるかな 

  (つらいことは他人の上に訪れるものと思っていたのだが、それが今、自分のうえにおとずれた。せつないものだ)

 さて退出して自由の身になった小町のもとには、次から次に求愛やら求婚の文(ふみ)が届けられるようになった。来る日も来る日も、それは小山をなすほどの量なのだった。思いついて、それらを糊でベタベタとはり観音像を作った。何体作ってもまだ文は届き、「いったいどれだけ観音像を作ったらいいのぉー?」と嘆くほどに、とめどもなく文は届くのだった。それでも、そのなかの誰かと結婚しようという気にはなれないのだった。

 しかし小町にも確実に人生の秋はやってきた。ちやほやしてくれていた男たちは、仕事や女房子供を養うのに忙しくなり、もう小町にかまっているヒマはなくなっていた。右に左に男たちをなぎ払ってきたというのに、今や男たちの影すらないのだった。そこで憂愁にみちた有名な歌が詠まれた。

   花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

   色見えで うつろうものは 世の中の 人の心の 花にぞありける

   秋風(台風)に あふたのみ(田の実 稲穂)こそ かなしけれ わが身むなしく なりぬと思へば

 だんだんと京の都にいづらくなった小町はついに京を出る。あちらの庵、こちらの庵と放浪することになったのだった。かなり長生きしたらしく、90歳から100歳くらいまで生きたのではないかと言われている。夫も持たず強力なパトロンも持たず、女の身一つで生きていくのは並大抵なことではなかっただろう。

 小町をめぐる伝説伝承は小町の没後すぐに始まり、鎌倉室町~江戸明治と様々な書物にも取り上げられ、謡曲や歌舞伎の演目として今なお引き継がれている。最近では内館牧子の脚本で、『ミュージカル小野小町』が上演されたと聞く。かつて宮廷で華やかな暮らしをしたこともある美しい女が、落ちぶれて各地を流浪したとなると、人々の興味は募り、たくさんの虚々実々の物語が生まれてきたのだろう。

 日本全国に「ここで小町さんは亡くなりました、ここが終焉の地ですよ、ほら、これがお墓です」と主張する所が30か所くらいあるそうだ。それは北は秋田県 湯沢(そこで出生し、没したという伝説があり、“あきたこまち”という米の銘柄がある) 西は山口県の下関にも立派なお墓があるそうだ。

 それにしても小町は誇り高く、いさぎよい生き方をしたのではないかと私は思う。誰にもよりかからず、もたれず、毅然として生きたのにちがいない。冒頭の歌にあるように、自分の臨終のときにも、だれにも世話になりたくない、野にさらしたままで結構、と言いたかったのだろう。(この歌は政権の変動で失脚したある皇后の歌とも言われているそうで、真偽のほどは闇の中だ。)

 これまで小町伝説として伝えられてきたものの中には、後世の人による創作であったり、とんでもなく脚色されていたりして、小町の真実の姿には程遠いものが混じっているかもしれない。それでも波乱万丈の生涯を送った小野小町という人が、人の心を惹きつける十分に魅力的な人だったということに変わりはないのだ。 

 スーパーのチラシを見ていたら、“千葉産 あきたこまち 新米 10キロ2880円 お一人様1袋限り 売り切れ御免”というのがあった。おぉ、こんなところにも小町さんは健在だ。小町人気は衰えることなく、ずっとこれからも人々の心の中に生きていくことになるのだろう。明日さっそく“あきたこまち”を買いに行こう。

 

    

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90歳にして梅の木にのぼる

 朝からどんよりと身体が重くて仕事にならない、しかしここ一発どうしても元気を出さねば、というとき、私はちょっとばかりお高い栄養ドリンクを1本クーッの飲み干す。すると10分くらいたつと元気になったような気がしてきて、さっ、こうしてはいられない!という気がみなぎってきて身体が動くようになるのだ。まさにポパイのホウレンソウなみに即効性があるのだ。

 ただし、このドリンクのいけないところは、もうネンネしてもいいよ、という時間になってもなかなか寝付けないところにある。それに眠りが浅くなって頻繁に目を覚まし、したがって翌日は睡眠不足となるのだ。

 効能書きを虫メガネで読んでみると、カフェインになんとかに、とやっぱり神経を高揚させるようなものが沢山はいっているのだ。あんなの飲むのヤメヨ、と思いながらもつい手を出すことを繰り返し、だから私のヤクはやっかいなのだ。

 ところが先日、新聞を読んでいたら、元気なおじいさんおばあさんを紹介する欄があって、それを読んで私は驚いた。なんと90歳になるというのに、梅の木に登って実を採るおばさまが登場していたのだ。一人暮らしだが畑も作っていて、収穫したものを近所の人にあげるのが大好き。「さ、今度は何を植えてみんなを喜ばせようかなっ」と畑のレイアウトを考えたりして毎日が楽しいそうだ。

 畑を耕すときは耕運機を自分で動かすのだそうだ。「耕運機のほうがラクですよー。クワなんか使ってられません。腰のためにも耕運機のほうがいいのです」

 その90歳のおばさまの家は少しばかり小高いところにあって、毎日毎日上ったり下がったりしているのがエクササイズになって、元気にしていられるのかもしれない、とあった。

 もちろん健康食品などには無縁だそうだ。自分の畑で採れたものを自分で料理して食べる。それだけのことだそうだ。ちょっとへたばってくるとすぐに「あれ飲もう」と手をだすのがクセになっている私は恥ずかしくなってくる。

 れっきとした前期高齢者になって、ちょっとばかり暗澹とした気分になることもあるワタシだが、90歳になっても前向きに明るく暮らしている人がいることを知って、気分が一気に明るくなったのだった。

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正岡子規 どんな時でも平気で生きる

 ターミナルケアを考えるという集まりに参加してきた。基調講演は当地の病院の院長先生がされた。ご実家は禅宗の寺だそうで、そのせいかメンタル系の話が多かった。たとえば座禅は、いつでもどこでも誰にでもできる、というような話。また正岡子規に言及されたのは興味深かった。子規は「どんな時でも平気で生きる」ことをモットーにしていたというのだ。  

 正岡子規といえば高校の授業で『病牀六尺』を習ったのだが、それで読んだつもりになっていた。が、じつは読んだことはないのだと気がついて早速図書館の本を借り出して読んでみた。

 『病牀六尺』は子規の最晩年(享年35歳)に書かれた随筆集である。肺結核が深刻になり脊椎カリエスを発症し、激痛で身動きもままならないなかで書かれたという。もともと新聞に連載されたもので、明治35年5月からおよそ4カ月、子規が亡くなる2日前まで続いたのだそうだ。

 そのころの日本の時勢は日露戦争へと突入する風雲急を告げる時代。同郷の親友、秋山好古、真之兄弟はそれぞれ陸軍、海軍の第一線で活躍していた。体の自由の利かない子規はというと、ふとんにへばりついて生きるよりなかった。けれど病床の中から新聞雑誌を読み、見聞したことを論評し発信したのだった。

 そのコラムでは天下国家を論ずることもあれば、米の値段とか、身の回りの些細なことにも目をとめ、おもしろい発想をしめしていることもある。子規は“炊飯会社を興すのはどうだろう”と提案している。子規が寝ながら女たち(子規の母親や妹)を見ていると、休む間もなくご飯炊きや家事に追われている。これをなんとかして家事に費やす時間を短縮できないものかと考えたのだ。

 だがな~、とつおいつ子規は頭をめぐらす。メシのやわらかいのやら固いのやら、またオイラのような病人やら、メシの出来具合ひとつとっても好みはまちまちで一律というわけにはいかない。たかがメシされどメシ。やっぱり炊飯会社は無理かな~、しかしこれからはもっと女子教育に力をいれねばならんような気がする、といった具合だ。

 『病牀六尺』を飛ばしとばし、ななめに読んでいったせいか、子規がどういうときに“どんな時にも平気で生きる”と言ったのかはわからなかった。けれどわずか35歳でこの世を去らねばならなかった子規はどんなにか無念だったことだろう。 編集者が「先生もお疲れでしょうから、しばらく投稿をお休みになったらいかがですか?」と言ってくると、いや、これは私の生きがいなのだから身体の続くかぎり書かせてくれ、と必死に頼んでいる。

 とめどもなく書きたいテーマはあり、話題は尽きないのだ。たとえその身は病に呻吟していても、病に屈服せずに平気を装い前向きに生きること、それがどんな時にも平気で生きるという子規のポリシーだったのだろうか。

 私は読んでいて、子規の書いていることは、今でいうブログによく似ていると思った。もちろん子規は当代きってのインテリだ。なんってったって東京帝国大学(中退)出なのだ。

 しかし現代においては、私のようにたいして知識も教養もないのに、こうして自分の文章を発表し、世の中の不特定多数(私の場合はごく少数)の人々に読んでもらえるのだ。もっとふかーく感謝して書かせていただかなくてはと思ったことだった。

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ほんとうのことは言わない

 山岡鉄舟という人を私は知らなかった。このところ日経新聞で「波止場浪漫」(諸田玲子著)という小説を連載していて、それは清水次郎長の娘(実は養女)がヒロインの物語で、そこに時々、次郎長ゆかりの人物として山岡鉄舟の名が出てくるのだが、どういう人物なのだかわからないでいた。

 けれど白駒妃登美著「感動する!日本史 日本人は逆境をどう生きたか」を読んでやっとわかったのだった。

 鉄舟という人は徳川幕府の要人で、明治維新前夜の風雲急を告げる激動の時期に、勝海舟と西郷隆盛の会談を可能にした実力者であったのだ。なんとしてでも江戸城を無血開城にみちびかねばならぬ、江戸の町と市民を戦火から守らねばならぬ、と決死の覚悟で、官軍がひしめく東海道をひた走ったのだった。駿府(今の静岡市)に滞在している西郷隆盛に会って、勝海舟から預かった親書を渡さねばならぬ使命をおびていたのだった。

 一人の薩摩藩士を同行していた時はまだ良かった。が、彼が体調を崩して一人になってからは官軍陣営を突破していくことは危険極まりなかった。ついに大ピンチが訪れ絶体絶命。そんなときとっさに逃げ込んだのが一軒の茶屋だった。鉄舟は「官軍の兵に追われているが、大事を成し遂げるためだ、ぜひともかくまって欲しい」と言葉をつくし、土下座し、懇願した。その気魄は茶屋の主人にも伝わって、秘密の抜け道から海路、駿府へと逃がしてくれたのだった。そのとき案内を買ってでたのが、清水次郎長だったといわれている。

 大侠客であった次郎長はのちに鉄舟の薫陶をうけ改心し、富士の裾野の開墾、清水港の開港や英語塾を開くなどの社会事業に乗り出すことになった。悪にも強いが善に強い男だったのである。

 さて鉄舟の命懸けの行動が功を奏して首尾よく、鉄舟は西郷との会談に臨むことができ、のるかそるかの大一番に一歩もひかずに自分の役目を全うしたのだった。

 その後数日して勝海舟と西郷隆盛の会見が実現することになり、めでたく江戸城無血開城のはこびとなったのだった。歴史上のハイライトに残ったのは勝海舟と西郷隆盛の二人の名前だが、その陰には鉄舟の無私の大きな働きがあったのだ。

 この件いらい、西郷は鉄舟に全幅の信頼を寄せるようになり、なんと明治天皇の教育係を一任したのだった。ところがこの人事は、鉄舟の元の同僚の間でも、新政府内でも非難ごうごう。快く思わない人が多かったという。きのうの敵は今日の友、じゃないけれど、なんとまぁ節操がない奴じゃ、というところだろうか。

 しかし鉄舟は自分を非難する人々に対して一切の弁解や反論をしなかったそうである。代わりに歌を詠んだ。

    “晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり”

 (晴れた日も曇った日も、変わることなくさわやかに、気高くそびえたつ富士の姿は素晴らしい。人々からどんなに非難を浴びようが、富士山のように超然としていよう)

 人生のある局面において、私たちは人から面と向かって批判されることもあれば、陰でひそひそと悪口を言われることもあるだろう。そういう時は私のような小心者は「実はねー、あーで、こーで」とついつい釈明したくなるものである。しかしこのエピソードを知れば、あれこれと説明するのは全然美しくないように思われる。今ふうに言えばハンサムではないのだ。なんと言われようと富士山のように孤高に一人で立っていればいいのだ。

 さてその後の鉄舟は10年間にわたって明治天皇の教育係をつとめた。平安朝いらい、天皇は公家やら女官たちに囲まれて生活してきており、そこに骨のある男子を入れて宮中を改革する必要があった。新時代のリーダーとしてふさわしい強健な心と身体を身につけてもらわねばならないのだ。鉄舟は天皇から深く信頼され、その人間形成に大きな影響を与えたと言われている。

 

 

  

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石田三成ってほんとうはどんな人だったの?

 戦国武将の中でも石田三成については良い評判はほとんど聞かない。私の父は歴史上の人物についてよく話題にしたが、石田三成はたいてい悪者あつかいだった。直木賞を貰った安部龍太郎著『等伯』では三成は冷酷非情な男として描かれていた。

 けれどもそんなにワルイヒトだったのだろうか。もしあの時、関ヶ原の戦いで、もろもろの要因が働いて三成率いる西軍が勝ったならば、今頃は名君としてたたえられていたかもしれないのである。

 白駒妃登美著『人生に悩んだら日本史に聞こう』を読むと、秀吉と三成の出会いは次のようなものであったという。ある時秀吉は鷹狩りに行った。帰り道でたいそう喉が渇いたので、ある寺に寄り、茶を所望した。その寺の小姓は一杯目は大きな茶わんにぬるい茶をなみなみと注ぎ差し出した。飲み干した秀吉が、もう一杯所望すると今度はやや熱い茶を湯のみに半分くらい。もう一回頼むと、今度は小ぶりの湯のみに熱く点てた茶をほんの少し出した、ということである。まるで若き日の秀吉並みの気配りようである。秀吉はこの小姓が大いに気に入り城に連れ帰った、それが後の三成であったということである。(それは後世の創作という説もある)

 だんだんと頭角を現した三成を秀吉は重く用いるようになった。秀吉の天下統一の過程で一番不利益を被ったのは、四国を制覇した長宗我部氏と、九州全土を掌握しかけていた島津氏だったといわれる。それが秀吉の邪魔がはいって領土は減らされ、雇用してしまった家臣をクビにする訳にもいかず、人件費は増えるしで財政難に陥っていた。そこに戦後処理官として三成が派遣されたのだった。

 三成は彼らに経済の仕組みをよおく説明し、経理の技術まで手取り足取り教えたのであった。その帳簿の付け方は近代的な複式簿記のようなものを用いていたそうである。そのころはまだ、アラビア数字などは輸入されていなかったであろうから、計算はどんなにか大変だったことだろう。関ヶ原の戦いが起こった時、彼らは三成先生に恩義を感じ、西軍についたのであった。それにしても戦国の武将たちが帳簿を前にして、どらどらと数字と格闘しているさまを想像すると、なにやらおかしくもなってくる。

 2010年1月13日の日経新聞文化欄に中井俊一郎(宇宙開発エンジニア)という人が寄稿している。「我ら石田光成“弁護団”」という記事である。三成はほんとうにいいところなしの人間だったのか。敗者びいきの心情もあって、とかくネガティブに流れがちな三成像の見直しに取り組んでいるとのことである。10年前にはインターネットでつながる全国の「三成びいき」有志の会を立ち上げ三成の弁護につとめることになったとある。三成は現場を知らない上司(秀吉)からやいのやいのと急きたてられ、再考を促しても聞き入れられず、ほんとうに困っちゃう中間管理職で結構苦労したらしいことなどが書いてあった。

 戦いのあと、三成の居城 佐和山城に押し入った武将たちは、そのあまりにも質素なたたずまいに思わず襟を正したという。秀吉の側近として権勢をふるった三成であったから、城もさぞかし華美なものであろうというのが、おおかたの予想であった。しかし三成には贅沢をする気はさらさらなかった。三成は主君のためには精神的にも物質的にも、すべてを捧げるという信念をもっていたというのである。

 だから三成のことはよくわからないながら、私は隠れキリシタンならぬ“隠れ三成びいき”でいようと思っているところである。

 

 

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上機嫌に生きる

 ゲーテは「人間の最大の罪は不機嫌である」と言ったそうだ。ということは、ゲーテは自分の奥さんの不機嫌に困らされていたのだろうか?と私は勘ぐってしまうのだが、女房がプーッとふくれてご機嫌が悪いとなると、亭主もさぞ手に負えないことだろう。

 私も万事機嫌よく日々を過ごしたいと思ってはいるが、そううまく事は運ばない。どんな時にも上機嫌で過ごせるいい智慧があるのか。田辺聖子に「老いてこそ上機嫌」という本があるのを知って図書館に借りにいった。

 さて借りるにあたり著者名を書かねばならないのだが、どうしても思い出せないのだった。う~んとうなっていると、司書のおねえさんが「どういうタイプの人ですか?」と訊いてくれたので「大阪弁 小柄 おしゃれ」と言ったら即座に「田辺聖子ですね」と言って探してくれた。もうこの頃では人の名前とかその他の固有名詞とか、思いだせなくて困ることが1日に5回くらいあるのだ。これからはこういうふうにヒントを差しあげて推察してもらうことにしよう。

 「老いてこそ上機嫌」はなかなかにおもしろくて、さすがオセイさんだねぇーと笑ってしまった。なかでも“プライドと自立を守るために”は実にパンチが効いていた。

 “女と年寄りは金の要るもの。ましてや女であって年寄り、という存在は人一倍金が要る。何のために? プライドと自立を守るためである。80になって、ヒト(息子をふくむ)にああせい、こうせい、と指図をうけなくてもすむように生きるため、である。『女は幼くして親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべし』という女の三従の教えなどくそくらえ!である。”

 そうなのだ。おうちにいたいのに、行きたくもないデイ・ケアに、さぁさぁと車に乗せられ、連れて行かれるのなどおいらもまっぴらだい。断固としてNO-!と言うのだ。女であって年寄りは気魄を持ってプライドと自立を守っていこうよね!

 さてニーチェは“不機嫌は怠惰である”と言ったそうだ。これはどういう意味なのだろうかと私は考える。いろいろ考察したのち私は結論を得た。自身の感情のままに不機嫌でいることは実はハタ迷惑なことである。口角をあげて笑顔をつくれば、ココロの中がどうであろうとも笑顔になるのである。笑顔は筋肉の問題である。それをしないのは怠惰ということなのである。(ほんとうのところはどうなのか?)

 機嫌のいい人に機嫌よく接することはたやすい。しかし、機嫌の悪い人に機嫌良く接することはなかなかに難しいものだ。オセイさんは言っている。「私は、人間の最上の徳は、人に対して上機嫌で接することと思っている。」 徳のある人はどのような人にでも機嫌よく接することができるだろう。では徳のない我々は(失礼!)どうしたらいいのだろう。ココロは伴わなくていいから、まず笑顔をつくって上機嫌のフリをすることにすればいいのだ、ということになるのか。

 オセイさんはこんなことも言っている。「苦しいことを苦しい、いうてはあかん。苦しいことはおもろいと言い、おもろいことはつまらんと表現する、これがほんまのオトナじゃっ!」

 ほんまのオトナになるって、むずかしいのねー^^  

 

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漢字を返せといわれても

 漢字といえば忘れられないことがある。小学4年生のときのこと。担任は大石先生という男の先生だったのだが、毎日、土曜日のぶんも日曜日のぶんも、100字の漢字を宿題として書かされたのだった。それを忘れていくと、先生はげんこつを作りハァ~ッと息を吹きかけては生徒の頭をガツンとやるのだった。先生の右手中指の関節は特別に節くれだっていて頭の芯まで痛みがひびいた。

 そのことで先生を恨んではいないが、白川 静先生みたいに「漢字はこういうふうに成り立ってきたんですよ」とやさしく教えてもらったらもっとよかったのにと思う。けれどもあの頃、シャニムニ漢字を書くように指導してくれた大石先生には感謝せずにはいられない。漢字の基礎力を与えてもらったような気がするのだ。

 さて、古代中国社会にとって、祭祀と軍事は非常に大切なものであった。漢字は神への祈りや呪術によって敵を打ち破ろうとする文字から出来てきたのが圧倒的に多いのだという。甲骨文字や金文(殷から周の時代にかけて青銅器に文字を鋳込んだもの)の長年の研究から、そういう古代中国の社会のありようを究明していったのが白川 静さんの文字学だといわれているのだ。

 これを読めば背中が続々と寒くなるお話をひとつ。「取」という字がある。篇(ヘン)は耳で旁(ツクリ)は又という字であるが、これがなぜ「とる」という意味になったのか。実は「又」は右という字の元の字で、右手をあらわす字なのだ。だから「取」は左耳を右手で切り取るさまをあらわした字なのだ。

 戦争の際、討ち取った証拠に敵の左耳を切り(馘耳 かくじ)、その耳の数で戦功を数えたのだという。戦場で沢山の耳を切り取るとどうしても袋のような物が必要だ。「最」は戦場で得た耳を袋に入れて集め持つという意味で、一番集め、一番功績のあった者を「最」といったのだという。

 そしてもうひとつ血なまぐさい話を。「道」という字がある。篇は「しんにょう」で、これは四辻をあらわす文字から進化していった「みちを行く」という意味であるから問題ないとして、ではなぜ旁は首なのか。

 白川文字学によると、他の氏族のいる土地や外界に通じる道は、邪悪な霊に接触する非常に危険な所だったのだが、その「道」を行く時、異族の人の首を刎ねて、それを手に持ち、その呪力によって邪霊を祓い清めて進んだのであった。祓い清められた所を「道」といい、「みち」の意味につかったのだといわれる。なにしろ時の王は神事と軍事で強権を発動しなければならなかったので、漢字のなかには、こわ~いお話はてんこ盛りにあるのだ。ちなみに何故、日本で文字が発達しなかったかというと、強い大きな王がいなかったからではないか、と白川さんは見ていたそうである。

 白川 静さんによれば、日本語は漢字に出会ってはじめて、さまざまな考えを概念化することができるようになったのだという。日本人は漢字を媒介にして知性度を高めてきたのだ。しかもたくさんの画数のある漢字を巧妙にくずして、ひらがなやカタカナを発明し、まことに使いやすい文字を手に入れたのは我々にとって幸運なことであった。

 このあいだ中国の人から「漢字を返せ」と言われた時には驚いたが、お返しにひらがな、カタカナを差し上げたらどうだろう、と私は思った。シコシコと漢字を書くって大変なのだ。以前ちかくに台湾から来た人の家族が住んでいて、お付き合いしたことがあるのだが、日本で育っている自分の子供に、「国語」を教えるのがほんとうに大変だと言っていた。漢字は表意文字であるから、眼で見れば瞬時にわかるのだろうが、それを書くとなると労力を要する。

 今日(3月26日)はTVをちらちらみていると、よく福井県の映像がでてきた。高校野球の敦賀気比だったり、鯖江の漆器だったり。もう彼の地では大雪は消えて、道路の片隅などにほんのり雪が残っているだけのようだった。このあいだまで、福井県に行くのだったら、うんと雪が積もっているときに行きたいと思っていたが、もうそんなことはどうでもよくなり、チャンスがあれば春だって夏だって、いつだっていいやという気分になったのだった。

 

 

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