山形の母はえらい!

 “おしん”が放映されたのは何年前だったのだろう。はじめに朝ドラで放映されたときは時間がなくて見れなかったが、のちほどBSで再放送された時はかなり熱心に見たのだった。この頃また放送されているので、私はほんとうは、ああいうせつなくなるドラマは苦手で見たくないのだが、家の者が見ているので、ついつい見てしまうのだ。

 私が目を離せないのは泉 ピン子扮する、おしんさんの母(ふじ)だ。おしんさんの父が理不尽な(と思われる)言動で、おしんさんを怒ったり叩いたりする。母はそれを見ると娘を命がけでかばい、「とうちゃんっ!」としっかり抗議をするが、一方ではちゃんと父のほんとうの気持ちを分析して、とうちゃんはこういう訳でこういうことをしたのだ、と娘に伝えているのには感心してしまう。

 おしんさんが結婚してからのことだが、忘れられないシーンがあった。おしんさんの母は夫亡きあと山形の田舎で長男夫婦と同居していた。 おしんさんの実家はもともと小作だったのだが、農地改革かなにかで土地を得ることができて前より豊かになった。しかし実権は兄夫婦がにぎっていて、その嫁が姑イビリをするのだった。(渡辺えり子が憎ったらしい嫁を好演!)

 それを聞いたおしんさんは母に言った。「あんちゃんと、ねえさん(義姉)がかあちゃんのこと悪くするんだったら、おらのとこさ来い」 そのころおしんさんの夫は軍の仕事をして羽振りがよかったので、母を一人養うことぐらいたやすいことだったのだ。

 しかし、母は言った。「そがなことできね」。 母が言うには、子供の誰かがこの世の荒波にもまれ疲れはてたとき、帰ってきて羽根を休める所が必要なのだ。たとえ嫁からどんなにひどい仕打ちをされたとしても、自分はあの家にふんばって、帰ってくるかもしれない子供を待っていなければならない、と言うのだった。

 えらいね~!わたしはつくづくと山形の母はえらいと思った。 私は以前「ハワイの母は」という記事を書いたことがあるが、ハワイの母は一般的に「まず私がハッピーでなければ」と考えるらしいのに、山形の母ときたら自分の幸 不幸など頭の中にないのだ。 

 ハワイの母でなくても、私のように温暖な気候のところに生まれ、ボンヤリ育った人間と、雪深い北国で生きてきた人は、根本的に人生への心構えが違うのではないかと思われる。厳しい冬へ備えることや雪かきをすることだけとっても大変そうにみえる。気象予報で天気図をみると、北陸や北海道など、いつ見ても台風なみの大風が吹いているではないか。そんな中で暮らしている人々は、私などとは精神構造が違うのではないだろうか。

 せつなくなる物語はいやだいやだと言いながら、来週の日曜日も多分“おしん”を見てしまうのだろう。この頃山形弁がうつってしまい、「いぐべ」とか「~~してけろ」などとすんなり言ってしまうなぎささんです^^

 

 

 

 

 

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ハワイの母は

 これは30年ほどハワイで過ごし、日本にもどってきたA さん(60歳くらい、女性)から聞いた話である。

 ハワイというところは(私はまだ行ったことはないのだが)年中花が咲き乱れ、それで空気じたいがフローラルで甘くやさしく、住むには快適な所だそうである。

 人々は陽気で明るく、大きな声で話しては笑いさざめき、週末には誰かがパーティに招待してくれるのだそうだ。日本に帰ってきたらそんなこともないので寂しい、とA さんは言った。 「じゃぁ、あなたがパーティを開いて、私たちを招待してくれない?」と私が言うと、A さんは「それはちょっと~(イヤだってこと)」と言った。

 人を招くというのは大変なことだ。私などテーブルの上に山盛りのごちそうを並べないと気が済まないタチなので、夫が誰かをよびたいなどと言うと、たちまち猛反対するのですよね。ところがあちらの人々は「人を招待しておいてたったこれだけ?」というくらいのシンプルなものを出しておいて全然平気なのだという。もともと食べたり飲んだりが目的なのではなく、集まって話を愉しむというのがスタンスなのだろう。

 さてハワイの女の人たちは大変に情熱的で、この男!と思い込んだら結婚するのは速いそうだ。ところが夫に嫌気がさすとこれまた電光石火の速さで離婚してしまうのだそうだ。

 A さんはそんな彼女たちに「もうちょっと子供たちのために辛抱してみたら?」と離婚をふみとどまるように話すと、「あら、親がハッピーじゃないと、子供だってハッピーじゃないでしょ?」と切り返されるのが常だったそうである。

 ところが離婚して母子家庭になっても長くは続かず、またぞろ伴侶がほしくなり再婚することになる。前夫よりもっと素晴らしい人かどうかは暮らしてみないとわからないものだ。子供にとっては昨日まで知らなかったよそのおじさんがパパになるのだ。

 そのパパに連れ子がいたりしたらますます大変だ。たいして広くもない家に異質な人間がせめぎあって暮らすことになる。複雑な人間関係の中で暮らすのは大人でさへ難しいのに、子供にとってはなおさら耐えがたいこともあろう。

 子供は自分の家に安住できなくなり、ちまたへ飛び出す。それからドラッグへ手を出すのだ。いまやハワイではそれが大きな社会問題になっているということだ。親が離婚したから子供がグレルとは限らないだろうし離婚しなくてもグレル子供はいることだろう。けれども親にとっては悩ましい問題だ。あの時 離婚していなければこんなことにはならなかったのではないだろうかと煩悶することになる。

 数年前うちの娘たちがハワイへ行った。コンドミニアムとかいう部屋を借りて自炊したそうだが、買い物 洗濯 炊事に追われてゆっくりする間もなかったという。おまけに日本の梅雨どきみたいに雨は降り、空はどんよりと曇り、打ち寄せる波は灰色でにごっていたそうだ。「これなら五島へ帰ったほうがよかったぁ~」と言い合ったそうだ。なにしろ五島だったら、食事は自動的に出てくることになっているのでらくちんだ。(この母のおかげで^^)

 ハワイというと私たちは、抜けるような青い空 白いビーチ 押し寄せるエメラルドグリーンの波 降り注ぐ太陽のもと、のんびりと甲羅をほしている人々くらいしかイメージしないものだ。けれどそれはハワイのほんの一部分なのだ。そこに暮らす人たちは私たちと同じように、はぁ~~とため息をつきながら、けっこう重い人生をしょって生きているのだろうなと思ったものである。 

   

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そのうちママのようになるでしょう

013 テレビをつけたら、、、あまりにおもしろくて一人でアッハッハーと笑ってしまった。画面には母親とその娘の小学二年生くらいの女の子がいたのだが、どうやらそこのうちの父親が隠れてビデオのカメラを回しているらしかった。

何か事情はよくわからないけれど、母親が女の子をさかんに叱っていた。それも買い物かごの中から取り出した長ネギで女の子の頭をポカポカ叩きながら叱っているのだった。

母親「ガミガミガミ、、、わかった?なんで怒られたかわかった?」

女の子 「……ネギ

母親「ネギじゃないでしょ!なんで怒られたのか考えなさいッ」

女の子 「……ネギ

母親「ネギじゃないってば!なんで?って言ってるでしょッ?」

女の子 「……ネギ

母親が何度言っても娘は小さな声で「ネギ」と言うのだった。母親はどういう理由(reason)で叱られているのかわかったのか、と確認したいのだろうけれど、娘の方はネギという手段(by)で叩かれていることのインパクトが強くて、ネギ以外に答えられなかったのだろうか。ネギはそのうちクタクタになってましたねー^^

それにしても狭い家だろうに、よくぞ隠し撮りなどできたことよ、と感心したことでしたー。

先日のある日のこと、我が夫 Tが電車に乗っていると、、、小2か3年生くらいの女の子とその父親らしき二人が乗り込んできて向かいの席に腰をかけたそうだ。聞くともなしに二人の会話を聞いていると、、、

女の子「おとうさん、新婚旅行ってどういうこと?」

父親「それはねー、結婚式が終わってから出かける旅行のことだよ」

女の子「ふ~ん、じゃお父さんとお母さんはどこへ出かけたの?」

父親「オーストラリアだよ」

女の子「そんなお金、どこにあったのッ」

父親「それはねー、お父さんが若い時からずーっと貯金してたお金だったんだよー」

T は、もっともっと二人の話を聞いていたかったのだけれど、後ろ髪引かれる思いで、電車を降りたということでしたよ^^

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リッツ・カールトン・ホテルへようこそ

_008_4 ムスコの一人から「いつかお母さんをリッツ・カールトン・ホテルに泊めてあげましょう」という申し出があったのは恐らく多分先月12日に書いた記事の波及効果によるものだと思うのだが、、、。そこで私は 「一刻も早く親孝行してくれ~!」 と要求したのであった。

リッツ・カールトン・大阪がどんなホテルかは林田正光著“リッツ・カールトンで学んだ、仕事でいちばん大事なこと”を読んだらわかった。

それは大阪・梅田にある外資系のホテルなのだが、神秘的(mystic)とまで言われるその類まれなサービスによってオープン2年目にして大阪地区1位との評価を受けたという立派なホテルなのである。

その外観はシルバーホワイトに輝くモダンな高層建築、中に入れば一転して18世紀の英国貴族の邸宅を思わせる優雅なスペースが広がっているということである。磨き上げられたレッドブラウンの大理石の床、マホガニー材を使用した壁、暖炉のあるロビー、素晴らしい絵画、アンティークの調度の品々、、、。風格とあたたかさがあふれる、世界に誇れるホテルなのだそうである。

そもそもこのホテルは創業の際、社会の頂点の5パーセントの層を対象としてマーケティング戦略を立てたと言われていて、そこのお客の方々はおしなべて知識、経験ともに豊富で、海外にでかけることはもちろん、ブランド物の装飾品を身につけ、センスのある服を身にまとい、高級なレストランで食事をなさる人々なのである。(わたしはそのどれにも該当しない)

私は夫に我が家は社会のどのあたりにいるのだろうか、と訊いてみた。夫は言った。「そうさね~、中の下くらいだろうな~」

中の下と申しますれば、富士山でいえば、中腹よりももっと下のほう、ふもとのあたりではないかと思うのですが、、、。そのあたりに住んでいる人間が頂上付近におわします人々と肩を並べるというのは至難の業であろう。シルバーホワイトの外観を眺めることはあっても中に足を踏み入れることなど我が生涯にはなさそうな気がする。

リッツ・カールトンに相応しい教養と品格を備えた淑女になり、経済力をパワーアップすることなど一朝一夕に出来るものではないのである。富士の裾野にいる者はそれなりの身の丈に合った所がお似合いというものである。

有馬温泉、熱海の温泉、草津の湯、下呂温泉、温泉旅館でよしとするかな? でもチト遠いなぁ~、熊本は黒川温泉にする? いっそのこともっと近場で佐賀は武雄の温泉で手を打つか、、、、、、

、、、、、、とこんなふうにだんだんと志(ココロザシ)が低くなってしまったなぎさでありました。(*^_^*)

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リリー・フランキー著 東京タワー オカンとボクと時々、オトン

_042 帰省したムスコが「おっかさんもこれを読むべき」と持ってきたのが『東京タワー』の本だった。近くの図書館に借りに行ったら1、030人の待ち人がいたそうで、これじゃあ、いつになるかわからん、というので買ったそうである。私は知らなかったが今ではすでにテレビドラマ化、映画化されているそうなのだった。

私はこの頃の若いもんの書くものは苦手なので、読むつもりはなかったが、ちょっとだけ、のつもりが、一気に読んでしまった。とくに“オカン”の臨終の場面になるともう泣けて泣けて、実の父と母に別れた時でさえ、こんなには泣かなかった、というくらいに涙が出たのだった。(もっとも父と母は長寿をまっとうして、大往生だったのだけれど)

この本を読み終えたら、私は是非とも、ほかの子供達にも読んで欲しいものだと、切に思った。

これこれ、うちの子供たちに告ぐ~。まだこの本を読んでいない子、約二名はすみやかにこれなるを読むべし。“オカン”みたいにこの母だって、遅かれ早かれ、あの世にみまかる時がくるのを、しっかり認識して欲し。その時になって、「あらら、たった今から親孝行するつもりだったのよ」と言っても、もう遅いんよー。

“ボク”も本の中で言っていたぞ。『こんなん食わしてやりたかったねぇ、ここの焼き鳥はオカン好きやろうねぇ、京都に行って素敵な店に入ったら、こげん所に連れてきてやりたかったねぇ、と思うし、オカンくらいのばあさんが友達と旅行しよるとこやら見かけたら、なんで生きとる時にもっといっぱい旅行させてやらんかったんやろうかって後悔してから、いっつも涙が出る。』ってねー。 

今ならなぁ~んでも食べれるし、今のところ足腰達者で、どこまでも行けると思うし、後悔せんでいいように親孝行は早めにしておくれ~~!

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ある甘美な思い出

_031_1 子供たちが小さかった頃の正月のこと、私たちは12畳の部屋に固まって寝ていた。親子三人くらいだと、川の字になって、などというけれど、7人が折り重なりようにして寝ていると、これは一体どんなふうに形容したらよいものか、、、。

その頃、長男がこの世のものとは思われないようなひどい風邪を引いてばい菌をまきちらしていた。台所で忙しくしていた私がちょっと様子を見に行った時、長男は「トイレに」と言ってふとんから抜け出していった。

するとそのぽっかりあいた穴の中に次男が「あったか~♪」と言いながらすばやくもぐりこんだ。そこは40度の熱がある長男が巣ごもりしていたのであるから、そのムロの中はかなりの高温になっていたはずで、さぞキモチ良かったことだろう。

この次男というのはかなりの潔癖症でババッチクナイ?が口癖であった。たとえば台所のテーブルの上にまんじゅうが置いてあるとすると、このムスコはなぎさママの所に走ってきて言うのだった。「あのまんじゅうね、ババッチクナイ?」 そしてママから「何言ってるの!、ババッチクナイから食べなさい!」と叱られてはじめて安心して食べるような子だったのだ。

だからその時、「これこれ、そのふとんはばい菌の巣窟じゃよ」と教えてやればたちまち重症の患者になったかもしれないのだが、知らないということは偉大なことで、起きてきた時、さて風邪が移ったかな?と楽しみにして注意深くみていたが、どうもなかったようであった。

トイレから戻ってきた長男は「あれ?ぼくのふとんは?」という顔をしたがすでに占拠されていたので、別のふとんにもぐりこみ、またあらたに汚染してくれたのだった。

その冬、風邪のばい菌が飛び交っていたにもかかわらず、新たな感染者も出ず、私たちは元気に過ごした。けれど今思うのだが、あの頃私たちは一体何十枚のふとんや毛布を折ったりたたんだり広げたり、上げたり、下ろしたりした事だろう。冬場は特に重労働だったのである。若かったのであるな~!としかいいようがない。

30数年前、夫とその母と私と3人で暮らし始めて、一人増え、二人増え、それから8人家族のピークに達したあと、一人去り、二人去り、、、。今また振り出しの3人暮らしになってしまった。これからまた減るばかりだよね~。最後まで残るのは一体誰だ?(こればかりは順不同のようでして、、、、。)

(一番下の子が成人式を迎えました。右端のオレンジ色の着物を着た子です。これでまた一つ、肩の荷がおりました~^^)

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救急車を呼ぶときは

二年前の今日という日は思い出深い日である。その日はオットは留守でハハもまた留守で、家には私と高校三年生のムスメがいた。

夕飯が済んだ後、私は食べ頃をすぎてクタッとなりかけたバナナを見て、バナナケーキを作ろうと思い立った。オーブンで焼きながら皿茶碗を洗い、のちにテレビを見ながら大量の洗濯物をたたもうではないか、というつもりだった。

エンゼル型二個にタネを流し込み、オーブンに入れスイッチオン。これから洗いものをしようぞ、というときに、何故か頭がフラフラしてきた。あれーっ、心の臓もバクバクしてきたぞ。ウゥ!吐き気もしてきた!

私は受話器をもつとヨロヨロと歩き、押入れの戸を開けて、ずるずるとふとんを引きずりおろし、お手々はバターでヌルヌルのまま横たわった。さぁ、どうしたらいいのだろう?心筋梗塞か脳梗塞を起こしかけているのだろうか?

救急車を呼んだほうがいいのかなー。しかし私はその時はっきりわかったのだが、人はほんとうに具合が悪いときには、電話で助けを求めることすらできないものなのである。二階にはムスメが大音量でなにやらやかましい音楽を聴いているのだが、ムスメにちょっと来て!と言うことさえできずにいた。

救急車に来てもらうにしても、、、と私は思った。台所は混沌として皿茶碗、ベトベトのボールなどが流しの中にてんこ盛りであるし、居間にはたたむべき洗濯物が三山ほどもある。それに私ときたら汚い格好で河岸のマグロのごとく転がっているのであるから女の美学が(!)、、、どうしても抵抗するのであった。救急車に来てもらう時は、家の中は整然と片付いてあらまほしきものである。

それからまた思った。もしかしたらこのまま死にゆくかもしれないのだから、その前にオットにひと言ごあいさつをした方がいいのではないだろうか。「長い間お世話になりました、有難うございました。あとは良きように計らってください、、、。」

それからやっとのことでオットの携帯に電話した。「なぜだかわからないけど具合悪いのよねー。救急車に来てもらおうと思うんだけど、家の中があんまり散らかってるからハズカシクテ、電話できないの」

オットは最愛の妻の、(かどうかは確認していないのだが)一大事だと聞いて急ぎ博多港から五島行きのフェリーに乗ることにした。そして私はといえばそのあと眠り込んだらしいのである。そして翌朝ふつうに眼が醒めた!

わ~よかった~生きていて! それに救急車なんか呼ばずにすんでよかった! それにしてもどうして突然あんなに具合が悪くなったのかしらね。

あとでムスメが言っていた。お母さんが死んでもあまり困らないけど、お父さんに死なれたら困るな~、と思ったと。せっかく受験勉強してるのに、学資が無くなったら自分の夢のキャンパス・ライフがおじゃんになる、と思ったらしいのである。  ったくもう、ムスメもムスコも育て甲斐がないとはこういうことかしら?

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妻がいて子がいて甘美なりしこと

ただ今、五島は台風まっさかりである。お昼過ぎから吹きだしたのだが、まだまだこの強い雨と風は弱まりそうにない。

台風襲来ともなると、我が家にまだ子供たちがいて、フルメンバーで過ごしていた頃は、実に賑やかで大騒ぎしていたものである。明日、学校は休みになるかもしれないというので、子供たちはなんとなくウキウキしているし、思う存分ファミコンに没頭しようと張り切っていた。

そうだ、あの頃はファミコン全盛時代で、うちの子たちも目の色を変えてファミコンに励んでいた。それがあまりにもひどいので、おばあちゃんはファミコン一式を紫色の風呂敷に包んで、押入れのどこかに隠したものである。けれど子供たちは特別な嗅覚が働くらしく、コトともいわせずに探し出したものであった。

「なぎささーんッ、子供たちをしっかり監督しなさいッ」などといってハハから叱られたものであるが、もうそれもずっとずっと前の話、今では老人3人暮らしになると、雨戸を閉め切ったなかで静かーにしていて、これといって話すことなど、別にィー、、、なにも…ない。  シーーーン

こんなふうにしているとその昔、短歌を習ったことのある師の歌を思い出した。(この師は二度も宮中の歌会に招かれたという輝かしい栄誉の保持者なのである。)

  妻がいて  子がいて 甘美なりしこと 

            過去世の如く  しのぶ夜あり 

この師は、(自ら言われたことなのであるが、)生来の短気者で、なにか気にいらないことがあると、ノミやらキリやらの仕事道具をタタミにブスッと突き刺したりして妻や子を恐れさせたものなのだそうである。

けれど奥さんが亡くなり、子供たちも独り立ちすると、あの頃のことがたとえようもなく甘美なものであった、ということがしみじみとわかります、という述懐なのであった。

夫(つま)がいて  子がいて 甘美なりしこと

             過去世の如く  しのぶ夜あり

アタシもいずれ、いつの日か夫を見送り、こういう心境になるのかしら、、、?     あの頃はよかったなー、泣いたりわめいたり、笑ったり、腹を立ててみたりしたけれど、なにもかも夢のまた夢、、、まるで過去世のごとしだぁー、なんて。

あらら、なぎささんたらすっかり夫を見送るモードにはいりこんでるみたいね。これは台風がもたらした気分ね、きっと。

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それって新種のオレオレ詐欺じゃないの?

去年の8月31日にはちょっと忘れ難い事件があった。去年の今頃はまだうちの三男坊は学生だったのだけれど、そのムスコの友達の兄だ、と名乗る若者から電話がかかってきたのは、お昼過ぎだったろうか。

その声は明るくさわやかで、しかも清々しく、おぉ、いい声だねー、あの山本耕二君を彷彿とさせるような好男子ではないか、と私はたいそう愛想よく応対していた。

ヤマモト君は言った。(文中  S とはうちの不肖のムスコのイニシャルである。)  「S君のお宅ですか? S君いますか? あ~そうですか、大学に戻ったんですね。S君のおかあさんですか? おかあさん、心を落ち着けて聞いてくださいね。 ……じつはうちの弟というのが優柔不断なヤツでしてねー。それで S君が弟にタイマを買ってくれといって金を渡したらしいんですよねー。」

ワタシ「え?タ、タイマってなんですか?大麻のことですか? では、チョ、チョット 待ってください、代わりますから。」 と言うと私はコケツマロビツ、大慌てでオットがいる外へ飛び出した。そしてオットに言った。「あのね、Sが大麻をやってるらしいのよ! ワナワナ 

受話器を代わったら、外に持ち出したためか電話は切れていた。そこでケイタイでムスコを呼び出したらすぐに出た。

オットは言った。「おい、おまえなー、(←すでに怒気をふくんでいる) 大麻の売買をやっているというのはほんとうか?(←返事いかんによっては『そういうことであれば大学もなんも即刻、辞めてしまえーーっ』 と叫ぶ気でいる)」

するとムスコは言った。「え?なんのこと? 大麻ねー、まだやってないよ。おとーさん、それは新種のオレオレ詐欺じゃないの? 秋葉原に行けば名簿はいくらでも買えるからねー、慶応医学部の名簿なんか値が張るらしいよー。」  などと話をしていたらヤマモト君からまた電話がかかってきた。

彼はまた、自分の弟が優柔不断であるという話から始めた。それでオットは言った。今ムスコに確認したらそういうことはやってないと言うんですよねー。

ヤマモト君は「警察に言ってもいいんですかーーっ!」というので「どうぞ、その方が本人のためになるでしょうから」と言ったら電話はガチャンと切れたのだった。 それからもう電話はかかってこなかった。

さてさてあの時、どうして私は頭の中は真っ白、顔面は蒼白になってしまったんでしょう? たいていの事には動じないつもりなんですけどね。よくよく考えてみるとその訳は二つありそうだ。

その1、電話の声音があまりにも普通の男の子だったこと。もうすっかりムスコの高校か大学の友達の兄さんだと思い込んでいたのだ。

その2、うちの子に限って、、、などと全然、思わなかったこと。それはあり得る!と思ったのである。(もうまるで信用してないんだからねー。)

それにしてもオットも私も舞い上がってしまって、彼の言うことをろくろく聞かずに終わってしまったが、いろいろネホリハホリ聞きただして、「それでは私たちはどうしたらよろしいのでしょう?」と言ってみたらどういう展開になっていただろうか。

なにしろ初めてのことでまるで余裕がなかったのである。いつかまたその手の電話があったら今度こそじょうずに応対できるのではないか、と思うが、またまた別の新種の手口だったら、やはり慌てふためきオロオロと取り乱すことになるのだろうか。

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子供たちへ お前たちの人生が多難であることを祈る 母

_052 今日の夕方、5時30分頃だったろうか、私はラジオを聞きながら炊事をしていた。するとラジオでいっていた。団塊世代の60%強が自分のやってきた子育ては首尾よくいった、もしくは満足している、と答えたそうなのである。

そうなのかー、皆さん自信大ありなのねー。なぎささんちはどうですかー?と聞かれたら煩悶してしまうだろう。首尾よくいったのやら、いかなかったのやら、、、。

実はうちには3人のムスコがいる。長男と次男はさほどではなかったが、三男坊にはかなりてこずった、という思いがある。この子が幼稚園の時のことだけれど……とまぁ幼稚園にまでさかのぼれば大長編になるので、はしょることにしようか。

さてこのムスコは二浪の末、東京の私大に入学することが出来た。その前には人にも言えないような超難関大学に挑んでいき、あえなく粉砕したのだ、ということは、ずっと後で、うちのムスメ達から聞いた。ついでながら、うちにはムスメが二人いる。

子供が二浪もしていると親の心労というのは並大抵なものではない。どこでもいいから受かってくれ!と言いたくなるものである。やっと入学が決まった時、私は東の方へ向かって手を合わせ、深~く感謝したものである。「うちのムスコを受け入れて下さいまして、有難うございました。」

さてそれから3年たって、ムスコが大学を辞めたい、と言ってきたとき、私は暗澹たる思いになった。なぜもう少し頑張れないのだろう、なんの取り柄もないのだから、大学くらいちゃんと卒業して欲しい。生き馬の目を抜くという東京で (と私の母親はよく言っていたものである。) どうやって身過ぎ世過ぎをしていくものだろうか、、、。

「仕送りもなくて一人でやっていけるのか」と夫が念を押したら電話の向こうで「ウン」と言ったそうである。それで決まりだった。

その頃、私はこんな話を雑誌で読んだ。女優の 壇 ふみ さんの父上、作家の 壇 一雄は子供たちに次のような言葉を残したそうである。

 『子供たちへ お前たちの人生が多難であることを祈る 壇 一雄』

それを読んで私は心の底から壇 一雄という人に畏敬の念を抱いた。ふつう親はこどもの将来がつつがなく無難であることを祈るものである。(それ故に回収の見込みもないのに浪人させたりして!) しかし壇さんは人生が多難であればあるほど人の心の痛みも分かり、優しくもなれる。こういうものが人生を豊かにするのだ、と言いたかったのであろうか。

壇さんを見習って、私は子供たちに人生が多難であることを祈ることにした。その方がうーんと楽チンなのである。

お盆前にそのムスコが帰省した時、私は言った。「あのね、キミのこと、ブログで書いていいかな?」 

ムスコは言った。「ハッハッハッハー! どうぞどうぞ、なにもかもぶちまけていいよ~♪」  それでこのたび小出しにしてぶちまけたのである。ホームレスになる前に五島へ帰っておいでねー、と言ったら、いろいろ手立てがあるからダイジョウブ、なんだそうである。

そうだよ、もう心配するより信頼する母になるのだ。いつもいつも子供たちが多難であることを祈っていれば、これより先、なにが起きてきても驚かないですむことだろう。

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