なんてったって女は強いな~^^

Pict0043 夫が、「もうあの妻と一緒には暮らせない、外に好きな女のひとがいるので、そのひととやり直したい」という意向をまず打ち明けたのは、その母にであった。家系を乱す行いを忌み嫌っている母こそ、まず説得せねばならないのであった。そしてそのことを嫁は姑から伝えられたのであった。

 それから姑上は付け加えて言った。「この際、あなたにも言っておきますけど、文彦(冬彦ではありません)がこんな気持ちになったというのは、あなた側にも多分に責任があるってこと、よく考えておいてちょうだいね。私から見ても、あなたはこの頃、なんだか書くことに夢中で、家のことには上の空よ。それが文彦にも伝わるんです!」

 それからまた言った。「あなた、最近何のかんのと理由みつけて、教会から遠ざかっていますね、それがいけないのよ、神様を忘れているのが。それが根本の原因よ、分かって? これを機にちゃんと教会へいらっしゃいね。」

 へんによそよそしいと思ってはいたがなんだ、そうだったのか。夫からの別れ話を聞いて妻は思った。よし、こうなったからには、文彦にはなるべく平静に接しよう。おそらく別れも近いのであろうから、、、。ところが夜更けて夫が帰ってくると、冷静ではいられなかった。 以下少々、とても迫力のあるシーンを抜粋してみることにしましょう。

 “夫の顔を見るや私は煮え湯を浴びた猫のように跳ね上がり、いきなり 「女がいるんだってねえ」とヤクザのような口調で叫んでしまったのだった。「おかあさんに打ち明けたんだって?お嫁さん替えたいんですけどって。まあまあ、いつまでもお母さんが怖くてお気の毒なこと。私に直接言って下されば良かったのに。私もそれほど物分りは悪くないつもりですよ。嫌われてまであなたにしがみついていようなんて気は、サラサラありませんからね。(中略 )いつだって出てってさしあげます!」 

 「いや…」と夫が口を挟もうとした。それをさえぎるように押入れの戸を力まかせに開くと、文彦の寝具一式をわし掴みにして、文彦めがけてポンポン投げ始めた。こんなはずではなかった、と思いながら。そう思えば思うほど、きたないものでもつまみ出し、放り出すように、蒲団を、枕を、寝巻きを、夫に向けて投げつけた。(後略)

 翌日から私は意識的に文彦をさけ、その持ち物にさえ触れるのを嫌がるそぶりを、わざとのようにして見せた。夫は私の際限もない嫌がらせに耐えねばならなかった”

 しかし、妻を取り替えることはかなりな難事業なのだ。夫だけならともかく、夫の背後にデンと控えている難攻不落の手ごわい母上がいるとわかったら、果たして「ではお嫁に参ります」などと言う殊勝な女がいるのだろうか。

 さて私は物語を読んだあと、我が夫に言った。あの赤いプルトニウムの女の子みたいなポーズで、余裕で半分笑いながら。 「女がいるというのであれば、ささっと出ていってあげますけどね。お気の毒だけれど(うちの、あのおかあさまがあなたの後ろにがんばっているようであれば)なかなか再婚までこぎつけるのは難しいんじゃないかしらぁ~?」

 すると夫はあっさりと、かつにこやかに言った。「大丈夫だよ~、オフクロだったらすぐに施設に入れるから~♪」

 ムムッ、なんということを言うのだ。ってぇーことは何ですかい、古女房(と自分で言いたかぁないが、古いことは古い)には無理難題を平気で押し付けておいて、新しいヨメハンのことはチヤホヤご機嫌をとろう、ってんですかい? ウーム、敵がそのような心根であれば、こちらも策を練り直さねばならぬ。女のいくさはきりもはてもないようだ、まったく。

 さて物語にかえって、伊吹家で冷戦状態が続き、泥沼化していた頃、これは神の恩寵というべきか、夫にアメリカ出張が命じられたのであった。夫は「留守を頼むよ。僕も少し頭を冷やしてこよう」と言って出かけて行った。そして一年後、帰ってきたときに、「ごめん、悪かった」と妻に謝り、、、ヨリを戻したのでありました。

 ほんとうに、それぞれのうちにドラマがあるものだ。たとえそれが家庭内の出来事であれ、能力のある者は、読む者をうならせるような作品を残すことができる。ところが圧倒的多数のものはそんなことは出来はしないのだから、そのドラマは歴史の片隅にひっそりと埋もれていく、ということになるのでしょうねー。  おしまい。

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主のみ心ならば

Pict0061 自由とは自らに由(よ)る、ということであり、それは判断し決断するのも自分なら、行動を起こすのも自分だ、それが自由というものらしい。ところが、この物語の著者であるお嫁さんには、姑さんが張り巡らす要塞の中で、自分で優先順位をつけて家事をやる自由はなかった。

 NHKが募集したラジオドラマの脚本が認められて、脚本家として出発できたのだが、思うように原稿用紙に向かう時間がとれないのであった。子供が外で遊んでいる間に、、、と思っているとお姑さまがカシャカシャと茶碗など洗いはじめる。もうどうぞほっといてください!あとでまとめて洗いますから、と言いたいところだが、姑上は家の中に汚れ物やゴミが停滞しているのが大っ嫌い、というのは骨の髄まで染み透りわかっていることであるから、そう言うわけにはいかない。

 そのうち子供が表で泣いていたりすれば姑上は「子供が泣いてますよ。」といちいち教えに来るのだ。おやおや、どうしたの?とみずからめんどうを見てくれるようなことはない。お姑さまは聖書のお勉強やら、短歌を詠むのにお忙しい。あなたの子供でしょ、あなたが責任持って育てるべきです、ということなのだ。これまたほっといてください!と言うわけにはいかない。「私は自分の子供を怪我ひとつさせずに育てました」というのがお姑上のご自慢なのだ。

 そうこうするうちまたもや昼のご飯だ。お姑さまにちゃんとしたご飯を食べさせねばならぬ。 おぉ御飯 ゴハン ごはん。トシヨリにとって三度三度のご飯をぬかりなくキチンと食べることは、天下の一大事なのだ。(しかし我々もいずれそうなる。年寄りわらうな 行く道だ、と世間さまでも言っている)

 ある日のこと、そのころは夫の転勤に伴い、一家は東京に住んでいた。そしてその日、夫はアメリカに出張中のことであったのだが、ラジオドラマの収録があり、夜遅くまで時間がかかることはわかっていた。姑上には「遅くなりますから玄関を閉めてどうぞ先におやすみください」と言い置いて出かけたのだった。

 録音取りが終わったのは12時を過ぎていた。大急ぎで帰ろうとすると、若いディレクターから「これからちょっと付き合ってくれない?」と誘われた。彼はいつも「あなたは羽目板を一枚つきやぶらなくてはいけない」とけしかけていたのだ。「いえ、なりませぬ、姑が待っておりますゆえに」などと、どうして断ることができるものかは、、、? なんという甘美なお誘いだろう。窮屈な要塞暮らしの身には史上初の出来事なのだ。

 夜のとばりが下りた六本木。だがしかし地下にあるBARの重たいドアの中には、急いでオウチに帰らなくてもいい自由を獲得した男や女が紫煙をくゆらし、ワイングラスを持つ手もしなやかで垢抜けていて、高級そうな話に興じているではないか。初めて浸る深夜の世界。初めて食べる料理。これが自由の味なのか!

 夜の世界の魅力とワインの酔いも手伝って、陶然とした気分で家にたどり着いたのは午前三時を回っていた。そおっと玄関の鍵をまわすとややっ、鍵は開いているではないか。敷居をまたいだ瞬間、仁王立ちになったお姑さまの激しい叱責が飛んできたのだ。「何時だと思っているの!遅くとも12時までには帰るべきです。パパも留守だってのに、いったい責任をどう感じているんです。ガミガミガミガミ、、、」

 そんなことこんなコトがあってのち、お嫁さんはとうとうペンを措くことにした。払う犠牲のほうが大きいような気がしてきたのであった。それに夫婦仲もだんだんあやしくなってきていたのだ。テレビドラマ『ただいま11人』とか『みなしごハッチ』などの作品があるそうだが、残念ながら私は見ていない。

 あの結婚の日から40年。最年長者、家長として君臨しつづけて、もうじきに100歳になろうかというのにお姑さまはまだ元気。お姑さまは年の初めの日記帳にこう書いた。「元旦を 日記開きてヤコブ書の 四章十五節つつしみて記す 主のみ心ならば、生きながらえもし、あの事、この事もしよう」

 著者である伊吹仁美さんは昭和二年生まれとあるから、今生きて在りませば81歳くらいであろうか。お姑さまの覆いかぶさっていない青い空を仰ぎ見る時間があったのだろうかと、私はひと事ながらかなり気にしているのである。

 さて私はもういい加減にこのシリーズを終了したいのだけれど、この物語のハイライトとでもいうべきシーンにふれたい気もするので、もう一回書くことにいたしますねー。なんと夫に愛人ができて、お家の騒動が始まってしまうのですね。ではまたのちほど。

 

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明るい灯をともしてほしい・・・

         Pict0016 『嫁を生きる』の物語は戦争が終わって二年もたたない頃の浜松で始まる。

 その町のキリスト教の教会がやっと再建され、献堂式が行われるというとき、信者を代表し、ゆきとどいた立派な祈りを捧げたのが、のちに著者の姑になる女性であった。そのそばに立っていたその人の息子にも会ったのであるが、その時は、わぁ素敵!この人のお嫁さんになりたい、などと思ったわけではなかった。

 ところがその後、牧師夫人の引き合わせにより、もう一度、会うことになった。そのあと追いかけるように彼からきた手紙は女心をふるわせるような、珠玉のような言葉に満ち溢れていた。「どうか、母と二人きりのさびしい暮らしに加わって、明るい灯をともしてほしい」

 この手紙と、メガネの奥の目がやさしそうだった、という理由だけで気持ちは決まった。母一人子一人がひっそりと暮らす小さな家に嫁いでいくことになったのである。おぉこわ~!なんとそれは30数年前の我が家の構図とまったく一緒ではありませんか!

 思えば若いということは恐れを知らない、ということだろうか。竹やぶの中にヘビの巣があるかもしれないというのに、まるで無防備に丸腰のまま、ヤブの中へ分け入っていこうとするのだから。

 姑になった人はどんな人だったのか。おっとその前に夫たる人は、というと、その人となりについてはほとんど記述がない。まぁ、若くして未亡人になった母が、女手一つで自分を育ててくれた、という恩義もあることから、母親に対して、まったく頭があがらなかったであろう、ことぐらいは推測できる。夫はひたすら会社へ出かけていき、家では姑と嫁がしのぎをけずることになったのであった。

 姑(おかあさまと呼ぶことにした)は熊本は細川藩に代々仕えた武家の出であった。維新によって、武士が失業を余儀なくされるころ、一族のうちの出世頭が横浜で成功をおさめていたことから、こぞってそちらへ移動していき、姑上はそこでキリスト教に出会い、信奉するようになった。姑上は武士道とキリスト教の二刀流でガチガチに武装したような60歳であった。

 一方、嫁のほうはというと。両親は長くアメリカで暮らしていたそうだから、その考え方や暮らし方は自由な家であっただろう。戦争のさなかでもハイネやチェホフを愛読していたそうであるから、文学少女で夢見る乙女であったのだ。女学校出たての19歳であった。

 姑上はまず、一日の終わりには必ず、自分に三つ指ついてのおやすみなさいを言うように要求した。ある時、両手がふさがっていたとき、どさくさに紛れこの三つ指ついてを省略しようとした。姑はそれを見逃さず、「荷物はそばに置いてごあいさつをしなさい」と命じた。

 子供が生まれてからのこと、ちょっとだけ姑上にめんどうを見てもらうと、それも必ず三つ指ついてのごあいさつをせねばならなかった。客がおつりを待つように、お礼を言われるまで、じっと正座して待っていた、というのだ。(別にめんどうみてもらわなくても、二人の子供くらい一人でなんとかできるのですが、、、)

 封建時代の遺物のような姑上との暮らしが、つまらなくて楽しくなくて不機嫌でいると姑上は言った。「あなたね、イライラしているようだけど、それは教会から遠ざかっているからですよ。これから教会へは必ず行きなさいね」 なんとシュウトメとはうっとうしい存在であろう。そうじゃありませんッ、あなたとこうして密着しているのが苦しくてイライラするんですッ、という訳にはいかない。たしかイエスさまは “あなたの目の前にいる人を私(イエス・キリスト)と思いなさい”と教えられたはずである。著者自身もキリスト教徒であるからこそジレンマも深いのであった。

 何年かたって、、、格子なき牢獄のような暮らしに、一条の光明が見えてきた。こっそり書いて応募したラジオドラマの脚本が、二千篇の中から、一等に選ばれたのであった。注文も舞い込むようになり、だんだんと忙しくなってきた。ヤッホー!これで姑の支配圏から抜け出し、オソトのおいしい空気を吸えるぞー!

 と喜ぶのは早かった。この姑を家に置いて外にでるのは、生半なことではなかったのである。 つづく

 

 

         

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嫁を生きる

Pict0008  去年の秋も深まったころのこと、近くの図書館で古本まつりというのがあった。これは図書館が廃棄図書として処分する本や、家庭からもうイラナイといって持ち込まれた本を、タダでもらえる催しである。

 ちょっと見てまわっているうち、私は『嫁を生きる』という本に目がとまった。厚さが2.5センチほどもあるその本は伊吹仁美著、講談社刊であった。さぁこれを貰って帰ろうか、どうしようか。

 考えてみれば、 私はもうウンザリするほど長々と嫁を生きているのである。嫁の考えそうなことはもうぜぇ~んぶ聞かんでもわかっておりますよ。もうよそのうちのすったもんだまで追体験することはなかろう。要らない、と思った。

 このごろ、泉ピン子さんが姑役のドラマが始まった、と教えてくれた人がいる。おもしろいのよ~とその人は言った。けれど私は嫁姑の話は苦手だ。どうせ姑が次から次へと無理難題を持ち出し、それに若い嫁が、オロオロハラハラしながら、あるいは腹をたてながらなんとか姑の意に沿うよう努力奮闘する、というストーリーであろうと思う。そんなことはわかってますってば。もうじめじめした愚痴っぽい話しは聞きたくもないのだ。

 しかし待てよ。今までにこういった極めて家庭的な題材で書かれた作品を読んだことがあっただろうか。ノンだ。数年前のことだけれど、著名人と言われる人々が寄稿した『嫁姑論』というのを読んだことがある。さぁて先生たちはどんなことを書いているのか、私は喜び勇んで読みだした。ところがそこには通りいっぺんなこと、大昔からの家庭制度の変遷だとかどうでもよいことしか書かれていなかった。「あなたのおうちではどうですか?」と聞きたいのに。

 それは仕方のないことではあろう。先生がたにも大事に守っていたい家庭があるのだ。本気でまじめに嫁姑論など書いたらその先生のうちは一瞬にして崩壊するであろう。それほど家庭内のことはデリケートで壊れやすいのだ。だから誰も手を出しにくいテーマであろうと思う。

 それなのに、この著者は勇気をもってこの本を書き上げたのだ。 ではありがたく頂いていくことにするか。なんてったてタダなのだ。読む気になれないときはまた、そっと返せばいいのだ。

 で私はその本を持ち帰り本棚に並べた。(背表紙はあちら側にむけて) そしてやっとこのたびその本を読んだ。いや~おもしろかったです。息もつかせぬおもしろさ。ヨメの心理というものをこんなに深くあからさまに、そしていさぎよく書いたものに出会ったのは初めてであった。

 “おもしろいことに、愚痴でさえ、表現が下手だとうんざりする話になるが、整理がいいと芸術になり得る   曾野綾子 ”

 そうでした。ほんとうに整理のいいお話で、たいした文学作品だったのでした。つづく

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捨てるのも美学

Tubaki_014 二階のおかあさまの部屋へ行くと、、、キチーンと片付けられて無駄な物など何一つない。“何もないのは美しい”というポリシーの持ち主だから徹底的に余分な物は排除するのである。

おかあさまは寝ながら考える。この家の中にもう使っていない物はないか、きたない物はないか。そして朝起きてきたら嫁たるわたくしに言うのだ。「なぎささん、もうアレね、捨てたら?」もしあとで、「やっぱりアレ、要るんだったわ」ということがあっても、ちまたには美しくきれいな物がいっぱい売っているんだから、その時また買えばいい、というじっつに明快にしてドライな考え方である。

そんなこと言われても、私としましては世界中の人々がこれだけ不自由しているのであるから、そんなに右から左へ捨てることなどできないのだ。いつかテレビで見たのだけれど、流れ着いてきたビンを「これ、私のものよ!」と喜んで拾っていた人たちがいたではないか。ちなみに母上と私は同じ干支でちょうど二周りの年齢差がある。それなのにどうしてこんなに二人は違うんでしょ?

さてうってかわって、私の部屋はいろんな物であふれかえっている。まだ読んでいない新聞雑誌、あとでシミジミと読み返すつもりでいる切抜きの山。(これは肝心なときに掘っても掘っても出てこないことになっている) 子供たちが遊んだ人形。誰かが作った木彫りのオルゴール。これがまたけっこうな空間を占めていて、ときおりあらぬ時にキンコーンと鳴るのだ。

ずっと前一念発起、こころざしを立て、尼僧のごとくにすっきりと何も持たずに暮らそう、としたことがあった。けれどなにかと不自由なことがわかってまた、もとの木阿弥でモノは徐々に増えていく暮らしになってしまった。

そんな私にある人が言った。「捨てるのも美学だからなー」

そうだろうなーと私も思うよー。エイヤッと捨てられたらどんなにすっきりすることだろう。すがすがしい一陣の風が吹き抜けていくのをこの身で感じることができるだろう。しかしながら、捨てるにもかなり頭脳労働が必要なのだ。持つべきか、持たざるべきか、じーっと考えていると頭痛がしてくるではないか。

このあたりでは“嫁は姑に似る”とずっと昔から言われてきた。共に暮らしていたら、いつのまにか似たような考え方をするようになるものらしいのだ。だとしたら、似てきたら問題ないわけねー。じゃぁ、いっそのこと煩悶するのはやめて“何もないのは美しい”の信奉者になって、あれもこれも捨てることにしようかしらー。

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春の風のように

012 30数年前、五島へ来た頃、近くに90歳を過ぎてもなお「この家ではワタシがタイショ(大将)」といってはばからない豪気なばばさまがいた。もう何十年も息子夫婦の庇護のもとにあるのだから「ワタシがタイショ」もないと思うのだが、なんだか知らないけれど一人で威張っているばばさまだった。

そのうちのお嫁さんという人は、もと先生だったので、私たちは「先生」と呼んでいた。笑顔でいそいそとよく働き、ばばさまがどんな嫌味を言っても辛らつなことを言っても、柳に風と受け流し、口でも顔でも反発してみせる、ということはなかった。それを見ていて、私はよく “気に入らぬ 風もあろうに柳かな” という川柳だか都々逸だかを思い出したのだが、先生のまわりにはそよそよと春の風が吹いているかのようだった。

ある日のこと、私は用事があって先生のうちへ行きあがりこむと、ばばさまがコタツでうたた寝をしているのを見た。それに気づいた先生は、つと立ち上がると奥へ行き、ばばさまのはんてんを持ってくると、やさしく肩にかけてやったのだった。いつも理不尽なことを言っては先生を困らせているばばさまなのに、先生はそんなことを気にしているふうはなく、徹底的にばばさまに尽くしているのだった。

私はほかの人から聞いたのだが、このばばさまは最晩年、先生のうしろ姿を手を合わせて拝んでいたそうである。死ぬ日まで口の悪かったばばさまだけれど、先生の真心はしっかりばばさまの心に届いていたのだろう。

生きた観音菩薩さまみたいな先生のすることなすことを、いつも見ていたのだけれど、私はちっとも先生みたいな心優しいヨメにはならなかった。したがってうしろ姿を拝まれる、、、というようなこともないであろうなぁ~と思われる。

私のヨメ友達もみな、「先生は偉かったねー、でもああいうふうにはなれない」と口々に言い合っている。なれないはずだよね、だって先生は観音菩薩さまの化身なんだから、、、。今、先生はF市に住む息子さん夫婦のところで幸せに暮らしていらっしゃいますよ。

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秋田県の姑さんはエライ! あなたはうちの宝物

Aso_015_2 前々回に“榎木孝明さんて素敵”という記事を書いたが、実はそんなことよりもっと心に残ったことがあった。

榎木さんが秋田県のなんとかという山村のあるうちを訪問して、そのうちのお嫁さんと姑さんと話していた時のことである。榎木さんは言った。「お二人はなんだかほんとの親子みたいに似ていらっしゃいますねー」

するとお嫁さんは「あらーっ、おばあちゃんごめんねー!私みたいなのに似てるだなんてー」と言って二人で大笑いしてるのだった。それからお嫁さんは言った。「ほんとうは東京で暮らしたかったんですけれど、このおばあちゃんや亡くなったおじいちゃんが私のこと“うちの宝物だ”といって大切にしてくれたものですから、裏切れなかったんですぅー」

それを聞いて私は驚いた。秋田県には息子のお嫁さんのことを“うちの宝物”だといって大事大切にしている姑さんがいるのだねーと。

五島にももちろん立派な姑さんがいるにはいるのだが、、、(とまことに歯切れは悪い)こんなふうに

あらゆることを不問にして、たとえば朝起きてくるのが遅いだとか、素直にハイと言わないとか、、性格が悪いだとか、金遣いが荒いだとか、夫(自分の息子)をこき使ってけしからんだとか、、

そんなことは一切言わない秋田県の姑さんの心のひろさやさしさ、それは人生の達人とでも言うべきだと思ったものである。

そして夜の11時ころになってご主人とその弟という人が仕事から帰ってきた。なんでも街なかで本屋さんを経営していて、帰りはいつもそんな時刻になるのだそうだ。そんな時間に晩ご飯を食べたりするのだからお嫁さんの負担は大きいに違いない。けれどお嫁さんは終始にこやか~にして、大人四人の暮らしをたのしんでいるように思われた。       

さてうちのムスコ達にお嫁さんが来たら“あなたはうちの宝物”と心から言えるものだろうか。宝物だと大切に慈しんでいれば仔猫が家に居つくように居ついてくれるものなんでしょうかねー、、、とまだ姑になったことのない私はつらつらと思うのでありました。

(写真は阿蘇の野草園で見た花です。名前をメモするのを忘れてしまいました)

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誰かこの模範嫁に表彰状を

Begoni6 破れ口(やぶれぐち)という言葉はこちらへ来て初めて聞いておもわず笑ってしまったのだが、、、どんな意味合いかというと、ひと言で言えば暴言、アトサキのことも考えず、人の気持ちを踏みにじるようなことを平気で言ってしまうこと、また言ってしまう人、を指すこともある言葉である。あの人はやぶれぐち、、、と言われたらそれは言葉の使い方がきわめて良くない人のことなのである。

Aさんが、やぶれぐちと陰で言われている婦人の息子の所へ、同居を覚悟で勇敢にも嫁に行ったのは、その息子が母親に似ずたいへん無口で誠実な人柄である、、と聞いていたからであった。

新婚旅行から帰った翌日の朝、新妻が二階から階段を下りていくと、すでにババさまは居間にいてテレビを見ていた。

Aさんは「おはようございます」とババさまに言った。するとババさまは言った。「オソヨー」

そんな事があってからというもの、Aさんは二度と「おはようございます」と挨拶をしたことはないと言った。だからといって二人がいつも冷戦状態であった、ということではない。ババさまが畑を耕して、と言えばハイと従うし、病院への送り迎えも機嫌よくするし、今日はこういう饅頭を作って食べる日だ、と言えば、ハイと言って作るし、、、。ババさまの監督の下でしょっちゅう作るので今やプロ並みの腕前になってしまった。(注1)

それからまた、長い休みに、ババさまの係累が大挙してやってきて長々とAさんの家に逗留する時もちっとも嫌な顔もせず、いそいそとにこやかに接待しているのである。疲労困憊でヨレヨレになっているにもかかわらず、、、。

それでイジワルなぎさばーさんが横からたまには言ってやるのだ。「あなたさぁー、そんなに機嫌よくしてないでさぁー、ぶ~っとふくれてればぁー? たちまち来なくなるわよぉー」

するとAさんはやさしく微笑みながら言うのだ。「いいのよー、できるだけの事するからー」

そういう言葉を聞くとなぎさとAさんでは人間の出来が全然違うということ、改めて確認することになる。もう、誰かこの模範嫁を表彰してちょうだい!と言いたくなるよー。(注2)

そんなにデキタ嫁サンなのだが、どちらかの死がこの嫁姑を分かつまで、二度と再び、「おはようございます」を言う気にはなれない、とAさんは言っていた。おはようございます、と言ってまた、「オソヨー」と言われたら心の臓も凍るというものではありませんか。

注1・・・ついでながら我が家では夫のハハは、まんじゅうはおすそ分けをヨソ様から頂いたらよばれます、という合理的精神の持ち主であるため、まんじゅう作りを強要されることはなかった。したがっていっこうに私の腕は上がらなかった。

注2・・・ずいぶん前に新聞記事で読んだのだが、東北地方のある村で、良くできた嫁を、模範嫁として村役場が表彰する所があった。表彰されたその嫁さんは(農家の嫁だったのだが)言っていた。「私は息子夫婦と同居など絶対いたしません、そんな可哀相なこと、嫁にはさせられません、、、。」

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客支度

_012_3 我が家に客が来ることは3ヶ月前からわかっていた。その一週間前になるとハハ(夫の母)はいった。「さっ、なぎささん、お客さんのふとんの準備をしましょ!」

ハハはとにかくとっかかりの早い人である。早めはやめでないと気がすまず、用意が出来てないと心配で夜も眠れないという人なのである。一方嫁たるワタシはお尻に火がついた頃になってやっと動き出すのを信条としているのだから、え~っ、そんなに早くから準備しなくてもぉ~、予定変更ってこともあるでしょうしぃ~、などと思っているが、逆らっても勝ち目はないので、シブシブながら従うことにする。

まず、客人がお泊りになる部屋の押入れの襖をとりはずす。(ハハは口先のみ、体を動かすのはヨメである) 一目瞭然となったところに、客人が暑くもなく、寒くもなく、快適にお寝すみあそばすように、布団その他必要なものを整えるのである。

ハハはどの布団を調達すべきか思い悩む。松か竹か、梅か、、、。そしてうちにはもっと上等の布団があったハズと言い出した。そうでしたかしら?そう言われても私はハハの寝具のコレクションの全貌をよおく知らないのである。だからあっちこっちの押入れ、納戸、物置など、見て回ったがそれらしい物はなかった。あれは夢かまぼろしだったのか?

ついでながら言っておくが、ハハは物の置き場を決定する人、ヨメは置く人なのだが、時が経つにつれて、二人ともどこに置いたかわからなくなり、いざ必要な時がきて走り回って探し出す頃には、だんだんと不機嫌になるのを飽きもせず30年来繰り返しているのである。

思うのだがおよそタオルと名の付くものは、大であれ、小であれ、宮内庁御用達であろうが明日、ぞうきんになるものであろうが、一堂に集まっていてもらいたいものである。さすれば、あ、バスタオル?それならソレッとばかりにタオルが一個連隊集まっている所へ行けば見つけられようと思うのである。ところが何故か、うちでは分散しているため、ちょっとやそっとでは召集できないのである。

さぁ~、やっとのことでご用意できましたよ!客人は60代半ばの男性だけれど、暖色系がよかろうというので、ほんのりはんなりピンク系で統一された。電気毛布なんかも置いておく。襖もしめて、、、。準備完了なり。

ところが夜になって客人から電話があって、「体調くずしたので暖かくなってから行きます」ということになった。わ~い、助かった~!なんといっても泊まりの客って大変なのよね~。清少納言も言ってるよん。

“上の客人(まろほど)立ちかえり、中の客人、日がえり、  とまり客人、下の下”

一応、延期になったが、暖かくなった頃、また二人でふとんの組み合わせをやるんだよな~。せっかくワンセットできたのに分解するのはまことに残念だけれど、今度は寒色系にするかもよ。すべてハハ上の裁量におまかせです(^_^)v

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カムフラージュ

_010_5 私のうちには、一部分だけれどヒノキで張った廊下がある。この廊下をうちのハハ(夫の母)はこよなく大切にイトオシンデいるものである。(だからといってハハは一度として、拭いたり磨いたりしたことはない。)

さて、この番町皿屋敷の皿、にも似てお大切な廊下に、あろうことか、この私が、漂白剤が入った水滴をポタポタと落としてしまったのは2年くらい前のことである。白く浮き出た水玉模様を見て、ハハが私に何と言ったか、これはご想像におまかせしよう。

さぁ~、これをどうしたものか?  そうだ!とひらめいて私は茶系統の三本のフェルトペンでこの水玉に木の節(ふし)を描くことにした。幸いなことに周りには黒っぽいのやら茶色っぽいのやら、木の節が点在していたのである。

これは我ながら上出来で、どれが本来の節やら手描きの節やらわからず、ハハもこれ以後、黙った。

さて次なる受難は先月、お盆のころである。私は不覚にも、その廊下にバナナの箱を置いて2~3日、放置していた。その中には野菜やら果物がはいっていたのだが、箱の底は結構に湿気があったらしく、この箱を持ち上げたとき、その真下の板は白々としたシミになっていた。

さぁ、この変色した廊下の板を見たとき、ハハがなんと言ったか、これもご想像にお任せしよう。隠滅工作する暇などなかったのである。

私は今度は茶色の靴クリーム2種類を使うことにした。布にクリームをこすりつけたものを、板にのばし、いかにも木目の模様らしく見せようと苦心惨憺。窓を開け、扇風機で匂いを飛ばし、ハハの留守中になんとか細工をし終わった。

これも上首尾で見場もよくなりほとんど前のような、いい状態に戻ったかのように思われた。ただし、油脂のクリームを塗りこんだせいでどうしてもツルツルと滑ってしまうのである。

ハハが滑ってしまったら大変なのである。ハハはこのところ体がかなり不自由になり、なにかというと「なぎささーん」と呼び立てる。すると私はワン! といって大急ぎで走っていっていろいろと頼まれた用事をかたずける、という日常なのである。

この廊下がすべらないようにするにはどうしたらよいのか、私は今、頭を巡らせているところである。

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