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ほんとうのことは言わない

 山岡鉄舟という人を私は知らなかった。このところ日経新聞で「波止場浪漫」(諸田玲子著)という小説を連載していて、それは清水次郎長の娘(実は養女)がヒロインの物語で、そこに時々、次郎長ゆかりの人物として山岡鉄舟の名が出てくるのだが、どういう人物なのだかわからないでいた。

 けれど白駒妃登美著「感動する!日本史 日本人は逆境をどう生きたか」を読んでやっとわかったのだった。

 鉄舟という人は徳川幕府の要人で、明治維新前夜の風雲急を告げる激動の時期に、勝海舟と西郷隆盛の会談を可能にした実力者であったのだ。なんとしてでも江戸城を無血開城にみちびかねばならぬ、江戸の町と市民を戦火から守らねばならぬ、と決死の覚悟で、官軍がひしめく東海道をひた走ったのだった。駿府(今の静岡市)に滞在している西郷隆盛に会って、勝海舟から預かった親書を渡さねばならぬ使命をおびていたのだった。

 一人の薩摩藩士を同行していた時はまだ良かった。が、彼が体調を崩して一人になってからは官軍陣営を突破していくことは危険極まりなかった。ついに大ピンチが訪れ絶体絶命。そんなときとっさに逃げ込んだのが一軒の茶屋だった。鉄舟は「官軍の兵に追われているが、大事を成し遂げるためだ、ぜひともかくまって欲しい」と言葉をつくし、土下座し、懇願した。その気魄は茶屋の主人にも伝わって、秘密の抜け道から海路、駿府へと逃がしてくれたのだった。そのとき案内を買ってでたのが、清水次郎長だったといわれている。

 大侠客であった次郎長はのちに鉄舟の薫陶をうけ改心し、富士の裾野の開墾、清水港の開港や英語塾を開くなどの社会事業に乗り出すことになった。悪にも強いが善に強い男だったのである。

 さて鉄舟の命懸けの行動が功を奏して首尾よく、鉄舟は西郷との会談に臨むことができ、のるかそるかの大一番に一歩もひかずに自分の役目を全うしたのだった。

 その後数日して勝海舟と西郷隆盛の会見が実現することになり、めでたく江戸城無血開城のはこびとなったのだった。歴史上のハイライトに残ったのは勝海舟と西郷隆盛の二人の名前だが、その陰には鉄舟の無私の大きな働きがあったのだ。

 この件いらい、西郷は鉄舟に全幅の信頼を寄せるようになり、なんと明治天皇の教育係を一任したのだった。ところがこの人事は、鉄舟の元の同僚の間でも、新政府内でも非難ごうごう。快く思わない人が多かったという。きのうの敵は今日の友、じゃないけれど、なんとまぁ節操がない奴じゃ、というところだろうか。

 しかし鉄舟は自分を非難する人々に対して一切の弁解や反論をしなかったそうである。代わりに歌を詠んだ。

    “晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり”

 (晴れた日も曇った日も、変わることなくさわやかに、気高くそびえたつ富士の姿は素晴らしい。人々からどんなに非難を浴びようが、富士山のように超然としていよう)

 人生のある局面において、私たちは人から面と向かって批判されることもあれば、陰でひそひそと悪口を言われることもあるだろう。そういう時は私のような小心者は「実はねー、あーで、こーで」とついつい釈明したくなるものである。しかしこのエピソードを知れば、あれこれと説明するのは全然美しくないように思われる。今ふうに言えばハンサムではないのだ。なんと言われようと富士山のように孤高に一人で立っていればいいのだ。

 さてその後の鉄舟は10年間にわたって明治天皇の教育係をつとめた。平安朝いらい、天皇は公家やら女官たちに囲まれて生活してきており、そこに骨のある男子を入れて宮中を改革する必要があった。新時代のリーダーとしてふさわしい強健な心と身体を身につけてもらわねばならないのだ。鉄舟は天皇から深く信頼され、その人間形成に大きな影響を与えたと言われている。

 

 

  

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