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石田三成ってほんとうはどんな人だったの?

 戦国武将の中でも石田三成については良い評判はほとんど聞かない。私の父は歴史上の人物についてよく話題にしたが、石田三成はたいてい悪者あつかいだった。直木賞を貰った安部龍太郎著『等伯』では三成は冷酷非情な男として描かれていた。

 けれどもそんなにワルイヒトだったのだろうか。もしあの時、関ヶ原の戦いで、もろもろの要因が働いて三成率いる西軍が勝ったならば、今頃は名君としてたたえられていたかもしれないのである。

 白駒妃登美著『人生に悩んだら日本史に聞こう』を読むと、秀吉と三成の出会いは次のようなものであったという。ある時秀吉は鷹狩りに行った。帰り道でたいそう喉が渇いたので、ある寺に寄り、茶を所望した。その寺の小姓は一杯目は大きな茶わんにぬるい茶をなみなみと注ぎ差し出した。飲み干した秀吉が、もう一杯所望すると今度はやや熱い茶を湯のみに半分くらい。もう一回頼むと、今度は小ぶりの湯のみに熱く点てた茶をほんの少し出した、ということである。まるで若き日の秀吉並みの気配りようである。秀吉はこの小姓が大いに気に入り城に連れ帰った、それが後の三成であったということである。(それは後世の創作という説もある)

 だんだんと頭角を現した三成を秀吉は重く用いるようになった。秀吉の天下統一の過程で一番不利益を被ったのは、四国を制覇した長宗我部氏と、九州全土を掌握しかけていた島津氏だったといわれる。それが秀吉の邪魔がはいって領土は減らされ、雇用してしまった家臣をクビにする訳にもいかず、人件費は増えるしで財政難に陥っていた。そこに戦後処理官として三成が派遣されたのだった。

 三成は彼らに経済の仕組みをよおく説明し、経理の技術まで手取り足取り教えたのであった。その帳簿の付け方は近代的な複式簿記のようなものを用いていたそうである。そのころはまだ、アラビア数字などは輸入されていなかったであろうから、計算はどんなにか大変だったことだろう。関ヶ原の戦いが起こった時、彼らは三成先生に恩義を感じ、西軍についたのであった。それにしても戦国の武将たちが帳簿を前にして、どらどらと数字と格闘しているさまを想像すると、なにやらおかしくもなってくる。

 2010年1月13日の日経新聞文化欄に中井俊一郎(宇宙開発エンジニア)という人が寄稿している。「我ら石田光成“弁護団”」という記事である。三成はほんとうにいいところなしの人間だったのか。敗者びいきの心情もあって、とかくネガティブに流れがちな三成像の見直しに取り組んでいるとのことである。10年前にはインターネットでつながる全国の「三成びいき」有志の会を立ち上げ三成の弁護につとめることになったとある。三成は現場を知らない上司(秀吉)からやいのやいのと急きたてられ、再考を促しても聞き入れられず、ほんとうに困っちゃう中間管理職で結構苦労したらしいことなどが書いてあった。

 戦いのあと、三成の居城 佐和山城に押し入った武将たちは、そのあまりにも質素なたたずまいに思わず襟を正したという。秀吉の側近として権勢をふるった三成であったから、城もさぞかし華美なものであろうというのが、おおかたの予想であった。しかし三成には贅沢をする気はさらさらなかった。三成は主君のためには精神的にも物質的にも、すべてを捧げるという信念をもっていたというのである。

 だから三成のことはよくわからないながら、私は隠れキリシタンならぬ“隠れ三成びいき”でいようと思っているところである。

 

 

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