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それとなく紅き花みな友にゆづり

 与謝野晶子(当時は鳳 晶子)山川登美子、与謝野鉄幹(当時は寛)の三人が初めて会ったのは1900年の8月であった。晶子22歳、登美子21歳、鉄幹27歳の運命的な出会いの日であった。

 その時から二人の若い女は鉄幹への恋のとりこになってしまったのだった。しかし鉄幹には滝野という妻があった。しかも鉄幹の主宰する新詩社の経営、短歌集「明星」の発行の資金のほとんどは妻の実家から提供されていたのだ。そういう事情もなんのその、晶子は鉄幹と初めてあった翌年の6月には故郷を捨て鉄幹のもとへと出奔。その間わずか10カ月。

 “狂ひの子われに焔の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅”(晶子)

(あなたへの恋心に身も心も焦がれんばかりとなった私は、恋の焔の翼をもって東京への百三十里の道をあわただしくやってきました。)

 そしてその年の10月には電光石火の早業で妻の座を奪取したのだった。そんな行動力のある晶子に対して、福井の裕福な家でおっとりと育った登美子が張り合ったとしても、太刀打ちできない相手であったろう。登美子は心の中でひそかに決心をする。紅い花をみな友にゆずるのだ。

 “それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ”(登美子)

 (それとなく友人のあなたに紅い花をみなゆずり、自分自身の恋心にそむき、泣きながら忘れ草を摘み、すべてを忘れようとしている私なのです。)

 それからの登美子は山川一族のホープであった山川駐七郎と結婚。しかし結婚生活は長くは続かず、二年もたたないうちに夫は胸部疾患で亡くなってしまう。その後、実家に戻った登美子は日本女子大の英文科に進むも、自身もまた夫と同じ病を得て、中途退学を余儀なくされるのだった。 夫もなく子もなく、まるで挽歌を歌うために生れてきたのではないかと評された登美子の歌。

 “わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく”(登美子)

 一方晶子のほうは、11人の子供を育てながら、歌人として評論家として教育者として大車輪の働きをするのだった。のちに、晶子の名声があがり、鉄幹先生ではなく、晶子先生に来ていただきたい、と講演の依頼がきたりすると、夫のプライドを傷つけないよう巧妙に手配をする賢婦人でもあったのだ。

 “筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと”(晶子)

(子供たちはあなたが愛用していた筆や硯や煙草を棺にいれているけれど、あなたが一番愛していたのは、このアタシなのよ、ということを言いかねました、、、。)

 若狭とは福井県西部の日本海に面した一帯をさす言葉だそうだ。登美子の生まれた小浜も日本海をのぞむこの一隅にあり、古くから開けた港町で教育に熱心な土地柄でもあるという。登美子の父は女子教育にも理解のある進歩的な考えの持ち主であったので、当時としては珍しく大阪の梅花女学校で英語を学ぶことができたのだった。そんなころ短歌をつくりはじめ、鉄幹に出会ったのだった。

   “髪ながき少女とうまれ白百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそおもへ”登美子

(黒髪の長く美しい少女と生まれ育った私は、白百合の花に額を埋めるようにして、あなたのことを思っているのです)

 「明星」では同人の女性たちを白い花にたとえて呼ぶならいがあり、登美子は白百合の君とよばれたのだった。 

 登美子が永眠したのはまだ29歳9か月のときであったという。 こころざし高く、人に譲るという美徳をそなえていた登美子の生家はまだ当時の面影を宿したまま残っているそうで、石垣積みの上に赤芽モチの生け垣が続く堂々たる構えの住居なのだそうだ。

 いつかそのあたりを歩いてみたいと思っていたところ、 今日(7月29日)のTVで、若狭のサバを使った「なれ寿司」のことを放映していた。なんと 2年間も漬け込んだままにしておくのだそうだ。初めて見た「なれ寿司」。おいしそうなものも沢山ありそうな若狭。

 わかさ、、、。なんと響きのよいことばなのだろう。いつか若狭の海を見てみたい。鯖街道というのがあるそうなので、そこをのんびりバスで行ったら、どんなにロマンチックな旅になることだろう。

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上機嫌に生きる

 ゲーテは「人間の最大の罪は不機嫌である」と言ったそうだ。ということは、ゲーテは自分の奥さんの不機嫌に困らされていたのだろうか?と私は勘ぐってしまうのだが、女房がプーッとふくれてご機嫌が悪いとなると、亭主もさぞ手に負えないことだろう。

 私も万事機嫌よく日々を過ごしたいと思ってはいるが、そううまく事は運ばない。どんな時にも上機嫌で過ごせるいい智慧があるのか。田辺聖子に「老いてこそ上機嫌」という本があるのを知って図書館に借りにいった。

 さて借りるにあたり著者名を書かねばならないのだが、どうしても思い出せないのだった。う~んとうなっていると、司書のおねえさんが「どういうタイプの人ですか?」と訊いてくれたので「大阪弁 小柄 おしゃれ」と言ったら即座に「田辺聖子ですね」と言って探してくれた。もうこの頃では人の名前とかその他の固有名詞とか、思いだせなくて困ることが1日に5回くらいあるのだ。これからはこういうふうにヒントを差しあげて推察してもらうことにしよう。

 「老いてこそ上機嫌」はなかなかにおもしろくて、さすがオセイさんだねぇーと笑ってしまった。なかでも“プライドと自立を守るために”は実にパンチが効いていた。

 “女と年寄りは金の要るもの。ましてや女であって年寄り、という存在は人一倍金が要る。何のために? プライドと自立を守るためである。80になって、ヒト(息子をふくむ)にああせい、こうせい、と指図をうけなくてもすむように生きるため、である。『女は幼くして親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うべし』という女の三従の教えなどくそくらえ!である。”

 そうなのだ。おうちにいたいのに、行きたくもないデイ・ケアに、さぁさぁと車に乗せられ、連れて行かれるのなどおいらもまっぴらだい。断固としてNO-!と言うのだ。女であって年寄りは気魄を持ってプライドと自立を守っていこうよね!

 さてニーチェは“不機嫌は怠惰である”と言ったそうだ。これはどういう意味なのだろうかと私は考える。いろいろ考察したのち私は結論を得た。自身の感情のままに不機嫌でいることは実はハタ迷惑なことである。口角をあげて笑顔をつくれば、ココロの中がどうであろうとも笑顔になるのである。笑顔は筋肉の問題である。それをしないのは怠惰ということなのである。(ほんとうのところはどうなのか?)

 機嫌のいい人に機嫌よく接することはたやすい。しかし、機嫌の悪い人に機嫌良く接することはなかなかに難しいものだ。オセイさんは言っている。「私は、人間の最上の徳は、人に対して上機嫌で接することと思っている。」 徳のある人はどのような人にでも機嫌よく接することができるだろう。では徳のない我々は(失礼!)どうしたらいいのだろう。ココロは伴わなくていいから、まず笑顔をつくって上機嫌のフリをすることにすればいいのだ、ということになるのか。

 オセイさんはこんなことも言っている。「苦しいことを苦しい、いうてはあかん。苦しいことはおもろいと言い、おもろいことはつまらんと表現する、これがほんまのオトナじゃっ!」

 ほんまのオトナになるって、むずかしいのねー^^  

 

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