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漢字を返せといわれても

 漢字といえば忘れられないことがある。小学4年生のときのこと。担任は大石先生という男の先生だったのだが、毎日、土曜日のぶんも日曜日のぶんも、100字の漢字を宿題として書かされたのだった。それを忘れていくと、先生はげんこつを作りハァ~ッと息を吹きかけては生徒の頭をガツンとやるのだった。先生の右手中指の関節は特別に節くれだっていて頭の芯まで痛みがひびいた。

 そのことで先生を恨んではいないが、白川 静先生みたいに「漢字はこういうふうに成り立ってきたんですよ」とやさしく教えてもらったらもっとよかったのにと思う。けれどもあの頃、シャニムニ漢字を書くように指導してくれた大石先生には感謝せずにはいられない。漢字の基礎力を与えてもらったような気がするのだ。

 さて、古代中国社会にとって、祭祀と軍事は非常に大切なものであった。漢字は神への祈りや呪術によって敵を打ち破ろうとする文字から出来てきたのが圧倒的に多いのだという。甲骨文字や金文(殷から周の時代にかけて青銅器に文字を鋳込んだもの)の長年の研究から、そういう古代中国の社会のありようを究明していったのが白川 静さんの文字学だといわれているのだ。

 これを読めば背中が続々と寒くなるお話をひとつ。「取」という字がある。篇(ヘン)は耳で旁(ツクリ)は又という字であるが、これがなぜ「とる」という意味になったのか。実は「又」は右という字の元の字で、右手をあらわす字なのだ。だから「取」は左耳を右手で切り取るさまをあらわした字なのだ。

 戦争の際、討ち取った証拠に敵の左耳を切り(馘耳 かくじ)、その耳の数で戦功を数えたのだという。戦場で沢山の耳を切り取るとどうしても袋のような物が必要だ。「最」は戦場で得た耳を袋に入れて集め持つという意味で、一番集め、一番功績のあった者を「最」といったのだという。

 そしてもうひとつ血なまぐさい話を。「道」という字がある。篇は「しんにょう」で、これは四辻をあらわす文字から進化していった「みちを行く」という意味であるから問題ないとして、ではなぜ旁は首なのか。

 白川文字学によると、他の氏族のいる土地や外界に通じる道は、邪悪な霊に接触する非常に危険な所だったのだが、その「道」を行く時、異族の人の首を刎ねて、それを手に持ち、その呪力によって邪霊を祓い清めて進んだのであった。祓い清められた所を「道」といい、「みち」の意味につかったのだといわれる。なにしろ時の王は神事と軍事で強権を発動しなければならなかったので、漢字のなかには、こわ~いお話はてんこ盛りにあるのだ。ちなみに何故、日本で文字が発達しなかったかというと、強い大きな王がいなかったからではないか、と白川さんは見ていたそうである。

 白川 静さんによれば、日本語は漢字に出会ってはじめて、さまざまな考えを概念化することができるようになったのだという。日本人は漢字を媒介にして知性度を高めてきたのだ。しかもたくさんの画数のある漢字を巧妙にくずして、ひらがなやカタカナを発明し、まことに使いやすい文字を手に入れたのは我々にとって幸運なことであった。

 このあいだ中国の人から「漢字を返せ」と言われた時には驚いたが、お返しにひらがな、カタカナを差し上げたらどうだろう、と私は思った。シコシコと漢字を書くって大変なのだ。以前ちかくに台湾から来た人の家族が住んでいて、お付き合いしたことがあるのだが、日本で育っている自分の子供に、「国語」を教えるのがほんとうに大変だと言っていた。漢字は表意文字であるから、眼で見れば瞬時にわかるのだろうが、それを書くとなると労力を要する。

 今日(3月26日)はTVをちらちらみていると、よく福井県の映像がでてきた。高校野球の敦賀気比だったり、鯖江の漆器だったり。もう彼の地では大雪は消えて、道路の片隅などにほんのり雪が残っているだけのようだった。このあいだまで、福井県に行くのだったら、うんと雪が積もっているときに行きたいと思っていたが、もうそんなことはどうでもよくなり、チャンスがあれば春だって夏だって、いつだっていいやという気分になったのだった。

 

 

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白石 静さんに学ぶ“漢字は楽しい”

 このところの北陸や東北、北海道のすさまじい雪の降りようをTVで見ると、私は漢字学者の白川 静さんのことを思わずにはいられない。白川さんの母は、白川さんが小学校を卒え大阪に働きに出るとき、「福井の人間は厳しい冬を耐えて春を待つ。その粘り強さを忘れずに努力しなさい」と言って送り出したという。白川さんは「福井で生まれ育った歳月によって今の自分がある」と話されたそうだ。

 どのような道をたどって“現代最後の碩学”とよばれるような大学者になられたのだろう。最晩年まで、立命館大学の研究室には、夜遅くまで研究に打ち込んでいられた博士の姿があったそうだ。

 さて、白川さんの漢字学における研究で、特筆すべきは、「口」の部分が食物を摂取する「くち」ではなくて、神への祝詞を入れる「サイ」である、ということを指摘して、「口」の字形が含まれる多くの漢字を新しく体系化したことだといわれている。白川さんは、甲骨文字や金文などを綿密に調べ上げ、「口」が耳目の口や膝の皿を表すばかりではないことを突き止め、本場中国の研究者もアッと驚く成果を成し遂げられたのだった。

 さて、「口」を含む文字には枚挙にいとまがないが、たとえば「加」という字はどうかというと、左側の篇の「力」は、もともと鋤(すき)をかたどって出来た文字で、右側の旁(つくり)の「口」は神への祈りを捧げるための「サイ」を入れるための箱であったのだ。古代中国では秋口の農耕の始めに、農具にお祓いをして、豊作を祈ったのであった。よって「加」とは生産量を増加させるために、農具にお祓いを「加える」ことを意味した文字なのだ。

 また「器」はどうであろう。「器」は四つの「口」と真ん中に「大」という字で構成されているが、実はこれは祝詞を入れる箱が四つ並べられていて、間に犬がいけにえのために置かれている情景を表しているもの、だそうだ。

 だから「器」とは儀礼のときに使用される、清められた「うつわ」の意味であった。そこから器材、器械、また人の能力、人の器量の意味などに使われるようになったのだ。そしてほんとうは、犬という漢字の4画めの点が必要なのだけれど、戦後の漢字改革で点が省略されてしまい、人の正面形をあらわす「大」という字にすり替わってしまったものだという。

 白川さんはこのように、古い字形を理解しないまま、省略や変更してしまった漢字のことを無念に思われ、元の字形に改めるべきだと主張してこられたのだという。

 大学者の白川さんだけれど、大変にユーモアのあるかたで、あるとき散歩をしていて突然 杖と両手をあげて背中を反らせるので、何をしているのかと娘さんがたずねると「イナバウアー」と答えられたそうだ。そして、荒川静香さんは数分の演技で世界中の人に知られる人になったのに、自分は何十年も漢字の研究をしているのに、まだまだだなあといって、周囲を笑わせていたのだそうだ。

 福井市の白川さんの生家跡に、白川さんの大変お気に入りの漢字「遊」のもとの字形が刻まれた記念碑が建てられたという。その字形は生前、白川さんが書き残されたものだそうだ。私はまだ、福井県というところに一度も行ったことがないのだけれど、是非ぜひ行きたいものだ。それも雪がしんしんと、あるいは激しく降るころに行きたいものだ。

 

 

 

 

 

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