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せつなを生きる

 いまからおよそ2500年前、インドのある国の王子であったお釈迦様が、妻も子も親も城も捨てて出家して数年もたつと、お釈迦様のもとには沢山の人が押しかけるようになり、さながら合宿所みたいな雰囲気になってきたそうだ。ある時お釈迦様が瞑想しておられるところへ、一人の男がやってきた。

 その若い男がお釈迦様に訊いた。「私の前世は何者だったのでしょうか。私の来生はどんなものでしょうか。」 お釈迦様は言われた。「お前さんね~、頭悪いのに、いろいろくだらんこと考えんでよろし。」 (お釈迦様は紳士であるから、こんな乱暴な言葉づかいはなさらなかったと思うが)そして次のようなことを教えられたそうである。

 「今日ただ今、この刹那を大事にして生きなさい。刹那とは“弾指”といって、親指と人差し指でパチンと指をならすその短い時間を65で割った、ほんの一瞬の時間のことである。人間はその刹那、刹那を大切に念を入れて生きればよいのだ」と。

 またある時、お釈迦様は周りの弟子たちに問いかけられたことがあった。「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」 弟子たちは口々に答えたそうだ。私の叔父は50歳で死んだので50歳くらいだと思いますとか、祖父が70歳で死んだので、70歳くらいだとか。

 お釈迦様は答えられた。「いや、どれも違う。人間の一生というのは、刹那、刹那、この一刹那だけだ」と。

 ふつう、刹那的に生きるというと、こんにちでは「今さへ良ければあとはどうなってもいいと思うこと」と解釈されているが、元祖 お釈迦様の本当の教えは、過去のことも未来のことも思わず、ただ今この瞬間瞬間を大切に生きよということなのだ。

 またお釈迦様は、人々がそばに寄ってきて、うちのダンナが~、うちの女房が~、うちのヨメが~、などと訴える人がいると、たいていあっちをむいて寝たふりをして、ほとんど取りあわれなかったそうである。

 けれども「わたしはどのように生きていったらよろしゅうございましょうか」という問いを投げかけて来る人には懇切丁寧に相談にのられた、ということである。つまるところ、他者のことはほっておきなさい、関心を持つな、ひたすら自分がどう生きるかを考えよということなのだ。

 過去のことも、未来のことも考えるな。現在のことさへ思うな。ただ刹那を生きよ。自分以外の人間のことも考えるな、ということであれば、もう頭を煩わせることなど何もなくなってくるではないか。梅が咲いたね~桜が咲いたね~、と一人楽しく機嫌良く過ごせばいいのだ、と私は解釈することにした。

 もう何も考えなくてもいいそうなので、私は近くの園芸店へ行って小さなシャクナゲを3鉢買ってきた。“モーニングマジック”という白っぽくてうっすらとピンクがかっているのと“夢路”という赤い花だ。お釈迦様はふだん、大きな声で笑ったりはなさらなかったそうだが、小さな子供を見るときとか、花々を見るときには、いいようもなく優しい微笑を浮かべられたということだ。

 さて、すべてのお経というものは、「私は釈尊からこのように聞いた」で始まるのだそうだ。お釈迦様が述べられた言葉を弟子たちが後世のために編集したのだ。曰く「すべては流転する。同じ状態の続くものはこの世にはない。それは無常という。人も、時も、事件も、噂も・・・」「この世のことは、すべて負ばかりということは決してない。負を正に転じる智慧こそが大切なのだ」「この世は美しい。人の世は甘美なものだ・・・」

 こういう珠玉のような言葉をお釈迦様は残しておられるのだ。私は「刹那を生きなさい」と教えてもらっただけでもずいぶんと心が解放された。お釈迦さまに感謝感謝。

  

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