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アジの干物を揚げる

 テレビを見ていたら、枝元なほみさんが長崎のある漁師町のおばさま方を相手に料理の公開講座をやっていた。いかにしてアジをおいしく食べるかだ。

 枝元さんはアジの干物を油で揚げて食べることを提案していた。ある人から教えてもらってそうしたら、とても美味しかったからと言っていた。おばさま達は、干物を揚げるなんてこと、したことないと言っていた。

 私も干物を揚げるという発想は思いもつかなくて、ドラドラと見入っていると、かなり大きなアジの干物を10数分揚げていた。試食したおばさま達もあ~ら おいしぃ~!アジをこんなふうにして食べるの初めて~!などと言っていた。

 あんなに大きなアジではなくてもと、私は1キロ200円の小アジを買ってきた。数えてみたら36匹。腹の方から左右対称に開き、頭も中骨も付けたまま。網に並べたら食卓塩を丁寧にふって半日、日光浴させた。

 これに小麦粉をはたいて油でからりんこと揚げるのだ。さぁどうだとつまんでみたらサクサクバリバリと食べることができて、しかもあとをひくおいしさ!これだとわざわざボーンフライにすることもなく骨も身も一緒に食べられるのだ。

 私は隣のおばさんにも早速届けたら、え~っ干物を揚げるなんて、と驚いていたが、あとで美味しかった~と感想を聞いた。それからはパパのビールのおつまみにと、しょっちゅう小アジを買いに行っているそうだ。

 しかしサカナなどを干すのはなかなかに難しいことだ。カラスや猫がうるさくてオチオチ干してはいられない。私は草取りをしながら見張っていたのだが、中くらいに忙しい人でないと、そんなことも出来ないかもしれない。それに街なかだと空気も汚れていたりして。するとある人が教えてくれたのだけれど、冷蔵庫の中に拡げていると、干物らしく干からびてくれるのだそうだ。

 ま、これをお読みになった方は、一度アジの干物を揚げてみてくださいませね。病みつきになること請け合いますよ^^

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♪はけば汚れます 洗えば切れるよ

 私は曽野綾子さんの随筆などは全部読んだとは言わないが、ぼちぼち読んできたので、あそこのうちの家庭の事情はだいたいわかっているつもりなのだ。けれど当然なことに、曽野さんは自分の母親のことは書いても、義理の両親、つまり夫 三浦朱門さんの両親についてはほとんど言及しないので、どんな人たちなのかということが、ほとんどわからないでいた。

 けれどこのたび、三浦朱門著『四世同堂』(昭和62年刊)を読んだらいろいろなことがわかってきた。朱門さんの母は新潟の生まれで、故郷の盆踊り歌にこういうのがあるそうだ。“盆だというのに なぜタビはかぬよ はけば汚れます 洗えば切れるよ”

 タビをはけば汚れるし、汚れたからといって洗えば消耗する。だからタビははかない、という意味の歌なのだろうけれど、朱門さんの母はこの精神を遵守し実践したのだった。息子夫婦が温かい下着を買ってきても、それは勿体ないからとタンスの奥深くしまいこまれ、二度と日の目をみることはないまま古くなった。差し入れた、軽くて温かい羽根布団も、押入れにしまい込まれたまま永遠に使われることはなかった。

 一方 曽野さんの母はというと、消耗品などはドンとまとめ買いをし、余れば人に分け与え、そうすれば人も物も喜ぶ、といった信条の人なのだった。モノに対する考え方だけでも、これほども違う二人の母と同じ屋根の下で暮らすことになったら、その生活はどんなにか混迷することであろうか。

 もっともはじめは曽野さんのうちに朱門さんがやってきて、入り婿のような形で新婚生活は始まったのだった。普通の神経の持ち主であれば、夫の両親と暮らすとなればその世話で忙殺され、のんびり小説を書くヒマなどないことだろう。けれど実の母親なれば無償で家事育児、生活万端を取り仕切ってくれるのだ。それにまた、曽野さんの母は離婚していたので、扶養しなければならないという事情もあった。

 けれど朱門さんに言わせれば、曽野さんの母は“悪い人ではないかもしれないが、共に暮らすには全然楽しくない人”だったそうで、若い夫婦は20数年ものあいだ、夜10時の門限を守らされたのだった。

 そのうち朱門さんの両親も年老いてきて、息子夫婦のところに合流することになった。双方の親は仲がよくなかったので、家の運営はなかなかに難しいことではあった。 そのうち曽野・三浦家では家を改築することになり、家が出来上がるまでの三ヶ月か四ヶ月のあいだ、親達には三浦半島にある別荘に行ってもらうことになった。呉越同舟ではあるが、お手伝いの女の子を一人つけて、さぁ、なんとか首尾よく暮らして欲しい、と祈るような気持ちで送り出したのだった。しかし初日にして朱門さんの父が大爆発をおこし、お手伝いさんは消えていなくなるし、曽野さんの母は東京の仮住まいに割り込んでくるしで、プロジェクトはたちまちにして頓挫したのだった。

 そんなことがあって、夫妻のあいだでは離婚のことが真剣に討議された。しかし家は建てかけているし、一人息子の太郎さんは思春期にさしかかっているしで、あっさりと離婚するわけにもいかないのだった。

 そこで得た結論はというと、これからは一番若い世代、すなわち太郎さんの幸せを優先することにしよう。そのためには親が夫婦別れなどしないほうがいいのだ。親達の言ってくる無理難題をいちいち取り上げず、場合によっては無視するか黙殺するか、とにかく親たちに振りまわされないようにしよう、という取り決めをしたのだった。

 さてそれからも3人の親達は激情のままにかんしゃくをおこしてみたり、ウツになったり自殺未遂をやらかしたりして、毎日がドラマのような日々は続いた。まったく三人の老親と共に暮らすのは実に重い仕事ではあったのだ。一人でさへ大変なのに^^。

 曽野さんはあるところで書いている。“私はすべての生活は過酷であると思っている。その、あって当然の過酷を正視し、過酷に耐えるのが人生だと、一度認識すれば、すべてのことが楽になる。” 

 曽野さんの書いた『戒老録』はベストセラーにしてロングセラー。最近の『老いの才覚』もよく売れているのだという。それらは日々親達の生きざまと深く関わってきたゆえに書くことができたものだといえよう。それにしても本がよく売れるということは、印税がじゃんじゃんはいってくる、ということだから、親達と暮らすのはご苦労さまなことではあったけれど、払った犠牲のぶんだけ、少しは報われたのではないかと私は思うのだ。けれど、印税って一体どれくらいのものなのだろうか?

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