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ハワイの母は

 これは30年ほどハワイで過ごし、日本にもどってきたA さん(60歳くらい、女性)から聞いた話である。

 ハワイというところは(私はまだ行ったことはないのだが)年中花が咲き乱れ、それで空気じたいがフローラルで甘くやさしく、住むには快適な所だそうである。

 人々は陽気で明るく、大きな声で話しては笑いさざめき、週末には誰かがパーティに招待してくれるのだそうだ。日本に帰ってきたらそんなこともないので寂しい、とA さんは言った。 「じゃぁ、あなたがパーティを開いて、私たちを招待してくれない?」と私が言うと、A さんは「それはちょっと~(イヤだってこと)」と言った。

 人を招くというのは大変なことだ。私などテーブルの上に山盛りのごちそうを並べないと気が済まないタチなので、夫が誰かをよびたいなどと言うと、たちまち猛反対するのですよね。ところがあちらの人々は「人を招待しておいてたったこれだけ?」というくらいのシンプルなものを出しておいて全然平気なのだという。もともと食べたり飲んだりが目的なのではなく、集まって話を愉しむというのがスタンスなのだろう。

 さてハワイの女の人たちは大変に情熱的で、この男!と思い込んだら結婚するのは速いそうだ。ところが夫に嫌気がさすとこれまた電光石火の速さで離婚してしまうのだそうだ。

 A さんはそんな彼女たちに「もうちょっと子供たちのために辛抱してみたら?」と離婚をふみとどまるように話すと、「あら、親がハッピーじゃないと、子供だってハッピーじゃないでしょ?」と切り返されるのが常だったそうである。

 ところが離婚して母子家庭になっても長くは続かず、またぞろ伴侶がほしくなり再婚することになる。前夫よりもっと素晴らしい人かどうかは暮らしてみないとわからないものだ。子供にとっては昨日まで知らなかったよそのおじさんがパパになるのだ。

 そのパパに連れ子がいたりしたらますます大変だ。たいして広くもない家に異質な人間がせめぎあって暮らすことになる。複雑な人間関係の中で暮らすのは大人でさへ難しいのに、子供にとってはなおさら耐えがたいこともあろう。

 子供は自分の家に安住できなくなり、ちまたへ飛び出す。それからドラッグへ手を出すのだ。いまやハワイではそれが大きな社会問題になっているということだ。親が離婚したから子供がグレルとは限らないだろうし離婚しなくてもグレル子供はいることだろう。けれども親にとっては悩ましい問題だ。あの時 離婚していなければこんなことにはならなかったのではないだろうかと煩悶することになる。

 数年前うちの娘たちがハワイへ行った。コンドミニアムとかいう部屋を借りて自炊したそうだが、買い物 洗濯 炊事に追われてゆっくりする間もなかったという。おまけに日本の梅雨どきみたいに雨は降り、空はどんよりと曇り、打ち寄せる波は灰色でにごっていたそうだ。「これなら五島へ帰ったほうがよかったぁ~」と言い合ったそうだ。なにしろ五島だったら、食事は自動的に出てくることになっているのでらくちんだ。(この母のおかげで^^)

 ハワイというと私たちは、抜けるような青い空 白いビーチ 押し寄せるエメラルドグリーンの波 降り注ぐ太陽のもと、のんびりと甲羅をほしている人々くらいしかイメージしないものだ。けれどそれはハワイのほんの一部分なのだ。そこに暮らす人たちは私たちと同じように、はぁ~~とため息をつきながら、けっこう重い人生をしょって生きているのだろうなと思ったものである。 

   

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どろぼうの思い出

 先日我が家では、タダで引き取ってくれるというので、使えなくなったエアコンやらパソコン、鉄製品などを回収してもらったのだが、そのとき、ずーっと物置の片隅に置いてある銅板も持って行ってもらおうということになった。で、私はそこへ急いで取りに行ったのだが、なんと20数年も置きっぱなしだった銅板が忽然と消えてなくなっていたのだった。

 いったい誰が移動させたのだろう。けれどどう考えても家には銅板に用事がある人間などいないのだ。ということは夜闇にまぎれて、もしくは白昼堂々と誰かが持ち去ったということなのだろうか。見知らぬ誰かが家の周りを巡回しているのだろうか。ちょっと気持ち悪いな~。

 そんなことどもを考えているうちに、私は大昔の若い日の、ある出来事を思い出していた。まだ学生だった頃、私は駅の近くの小さなアパートに住んでいた。階下には大家さんがいて、二階に4室あり、部屋の窓から下を見るとレンコン畑が広がっているようなアパートだった。ある日の昼下がり、私は自室で本を読んでいた。すると、すっとドアが開き、(もちろん鍵をかけていたのだが、それは内側からボチッと押すだけの簡単な鍵だった)ハッと見ると2人の男が立っていたのだ。そして一人が言った。「あ、スズキさんじゃないですね」 で私は「いいえ、違います」と言った。二人は失礼しました、と言って立ち去った。

 私はしばらく呆然として、今のはなんだったのだろうと考えた。そしてやっとのことで「あーっ、どろぼうだー」と気付いたのだった。いやな気分になった私は気分転換しようと、昼ひなか銭湯に行くことにした。ついでに下の大家さんにカクガクシカジカのことがありました、と告げたあと出かけたのだった。

 銭湯から帰ってくると三台ものパトカーが来ていた。それからというもの「私は、、、」で始まる調書とやらを取られることになった。なんとそれは3時間以上もかかったのだった。「それはもうさっき言ったでしょ!」と叫びたくなるくらい何度も同じことを訊かれたのだ。ヤレヤレ。

 あとでわかったことだが、アパートの住人のなかで、日中は勤めに出ている女の人のところで、タンスの引き出しの中の2万円がなくなっていたそうだ。そのとき在宅していたのは私一人だったらしいのだが、驚くべきことに私は何一つ物音らしきものを聞いていないのだった。ドアやタンスを開け閉めする音、話し声はもちろんのこと、アパートの外側の鉄製の階段はどんな人が昇降してもいつだってギコギコいっていたというのに、まるでそんな音は聞かなかった。彼らが「失礼しました」と言って降りていくときも、まったく音を立てなかったのだ。

 さてその後、居心地が悪いと感じた私は駅の向こう側に引っ越すことにした。そこにはちゃんとした管理人のおばさんがいた。有難いような有難くないようなおばさんだったが、あとで有難いおばさんだったことがはっきりわかる事件が起きたのだ。

 そこは女の子ばかりが住むアパートみたいな長屋みたいなものだったのだが、共同の炊事場があった。ある日のこと、それは土曜日だったが、ちょっとお茶を飲みたいと私はヤカンでお湯をわかしていた。お湯がわくまでのあいだに部屋に戻った私は「きょうは土曜日だから泊まりに行こうかなっ」という気になり横浜の姉のところへそのまま出かけてしまったのだった、ヤカンはそのままで、、、。

 そして翌日の日曜日の夕方、横浜から帰ってきたのだが、そろそろ降りる駅が近づいたころになって、私は火にかけたヤカンのことを思い出したのだった。私はホームから背伸びをして、あたりが焼け野原になっていないかどうか見渡した。家々はいつものように立っていて、あぁよかった、どうやら火事にはならなかったようだと胸をなでおろしたものだ。管理人さんからは大いに叱られたけれど、ありがたくお小言をちょうだいした。

 女の子ばかりが住んでいるというのに、そのうちの一人がアメリカ人の男の子と同棲を始めたりして、蜂の巣をつつくような騒ぎにになったことなど、もう何十年も昔のことどもが次々と浮かんできたのでございましたよ^^

追記 それから二カ月ほどたって、アメリカ人のジョーくんは出ていくことになった。そのころには私たちは ハ~イ ジョー♪とあいさつするほどに仲良くなっていたのだった。去る日の前の晩、ジョーは共同炊事場で一所懸命にハンバーガーを作り私たちも手伝った。ハンバーガーでお別れ会をしたのだった。 

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