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夫へのうらみつらみは

Pict0006  私は歯科医院の待合室で、『ゆうゆう』という雑誌をながめていた。『ゆうゆう』は子育て上の責任もほぼ終わり、夫もそろそろ定年を迎える頃、さ、これからゆうゆうどんどん遊ぶぞ~!という年齢にさしかかった女性達をターゲットにした月刊雑誌だ。

 ところが人生そうそう、うまくはいかないことになっている。この“ゆうゆう世代”はゆっくりできるどころか実に波乱にとんだ世代だ。自分自身の体調が思わしくなくなることもある。夫がガンの宣告を受けるかもしれない。ガマンにガマンをかさねてきたが、子供も成人したことだし、そろそろ夫と離婚しようともくろんでいる女もいるだろう。娘が出戻ってきて孫育てが始まることもある。それから親の介護が始まったりと、一筋縄ではいかないお年頃がゆうゆう世代なのだ。

 さて雑誌では“長年連れ添った夫への手紙”を特集していた。まだ生きている夫への手紙、もう死別してしまった夫への手紙。この世は広いから「あなたと巡り合えて幸せでした。また生まれ変わることがあったら、あなた以外の人と結婚するなんて考えられません」と心から夫を尊敬しアイしている女の手紙もあった。が、こういうのはあまりおもしろくもないからパスすることにして、人の不幸は蜜の味であるから、恨みつらみが盛りだくさんの手紙を紹介することにしよう。

 次はある女性の、まだ生きている夫への手紙だ。見合いの相手が医者だというので、左団扇でのんびり暮らせるかと思ったのはとんだ計算違いで、“あなたは桁違いの浪費家でした。ギャンブル、億という単位の保障かぶれ。弟妹の学資援助などで借金地獄。何度も自殺や離婚も考えました。息子たちがいなかったら今頃は死んでいたと思います。この結婚は完全に失敗でした。生まれ変わったら、あなたとは絶対に結婚しません”

 彼女はもう55歳だというのに、まだ医院の受付にすわって会計を見張っていなければならないのだそうだ。 次はもう死んでしまった夫への手紙。

 “お見合いの後の一ヶ月、あなたとお義父さんが私の家に日参。望まれて嫁ぐのが幸せと思って結婚を決意。なのに待っていたのは奴隷のような生活でした。お義母さんや義妹につらく当たられても、あなたはちっとも私をかばってくれませんでした。実家の母の葬式の日、悲しみにうちひしがれている私に、「帰って家族の夕食の支度をするように」と電話をよこしたことは生涯忘れません。あなたは12年前に亡くなってしまいましたが、生前これ以上は無理というところまで尽くしたので、思い残すことはありません。お義母さんが亡くなり、お義父さんは施設に預け、娘は嫁に出し、今は息子と二人暮らしですが、しみじみと幸せを感じています。実家の父の世話をできるのがありがたく、毎朝心穏やかに仏様にお参りしています。”

 どの手紙にも女たちの切実な思いがこもっていて、どれもこれもドラマになりそうな内容だ。“生涯忘れません”と言いたい出来事が私にも、思いつくだけでも五つくらいはあるが、関係者がまだ全員ピンシャンとして存命であるので、波及効果を考えるとここに発表するわけにはいかない。「皆さん、鬼籍にはいられました~」という頃には差し支えないかもしれないけれども、そのころはこのなぎささんもモウロクしてしまっていることだろう。ま、すべての事は、この胸にしまってあの世に旅立つことにしたほうがよいのかもしれない。

  

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京都 嵯峨野の祇王寺へ

Image  瀬戸内寂聴さんは五島にも講演にきたことがあり、私も聴きにいったのだが、どんな話だったかはまったく覚えていない。記憶に残っているのは「私は人寄せパンダです」と言われたのがおかしくてちょっと笑ったことぐらいだろうか。

 友達に寂聴さんの大ファンがいる。私は彼女の持っている寂聴さんの講演のCD12巻を借り受け、炊事をしながらぼちぼち聴いた。

 その中で寂聴さんは、40年ほど前に書いた『女徳』という小説にふれていた。それが今頃になって外国でも読まれるようになり、寂聴さんはイタリアまで講演に行ってきた、というのだ。

 私も30年ほどまえ、この小説を読んだことがあるが、全編これラブ・アフェア、手かえ品かえ色事の連続といった調子で、読むほどにうんざりしてきて「もう返さなくていいです」と言って誰かにやってしまったことがあるのだ。

 『女徳』の女主人公がどんな人かというと、仮に千代さんとでもいおうか、奈良の貧農の娘だったのだが、器量よしであったことと、頭がよさそうなことから、大阪の置屋へ売られてしまったのだった。

 花街の流儀に従って気に染まぬことどもをこなすうち、15歳のとき、ある男への腹いせのために小指を三味線の糸できりりと巻き上げ、自分でその指を落としたのだった。その落とした指をハンカチで包み、雪の降るなかを走ってくだんの男のもとへ行き「これ、あげまひょ」と言って差し出したのだった。

 その事件のあと、15やそこらで、そういうことをするとは空恐ろしい女だ、とそれまで売れっ子だったのが、たちまちお呼びがかからなくなってしまった。それではと東京へ行ったら「面白い女だ、いっぺん見てみたい」と引っ張りだこの人気者になったそうで、その美貌によりブロマイドなどももてはやされ大活躍だったそうだ。

 その後、結婚したり離婚したり、お妾さんになったり、ある男についてアメリカへ渡ったり。また別の男とフランスへ行き、かの地では堕胎が許されないので生まれた子供を孤児院に置いて、自分一人で身軽になって帰ってきたり。また大阪へ舞い戻ってバーのマダムになったりとさまざまな遍歴をしたのだった。

 そのうちだんだんと、千代さんはそういう生活に倦みつかれるようになった。もともと大変な読書家で、寝るときには枕元に本を積み上げて寝るような人であったのだ。また俳句を詠み、虚子に認められた優等生だったのだ。小指を落とした女の俳句はなにかしらご利益があるとして、千代さんが短冊にさらさらと俳句をものすれば、高価で売れたのだと言う。

 39歳のとき千代さんは「この黒髪があるから女としての苦労が絶えないのよね」とて髪を下ろし智照尼と名乗り、祇王寺へ入ったのだった。

  墨染めの わが初すがた 萩のまえ  (智照尼)

 10月27日のこと、私は娘と孫と三人で、京都駅より山陰線に乗り、嵯峨嵐山下車、タクシーで五分の祇王寺へ行ってきた。まだまだ紅葉の気配はなく、もみじはまだあおあおとしていた。祇王寺は平清盛までさかのぼる由緒ある寺だそうだが、なにぶんにも、、、古い。仏像が祀られている畳の部屋へ上がって拝んでもよろしい、というような書付があったが、畳はざらざらとしているようで気後れがしてその気にはなれなかった。寂聴さんによると、その六畳くらいの仏間に、智照尼さんの亡骸が横たわっていたことになるのだ。智照尼さんはちゃんと辞世の句も用意していた。

   露の身と すずしきことば 身にはしむ  (智照尼)

 そしてこの尼さんの物語は、小説がヒットしたことから、映画に舞台にテレビに舞踊にと、次々に取り上げられ、女優さんたちは競って出演したがった、ということである。傾きかけていた祇王寺もみるみるうちに整えられ、豊かになったということだ。

 そうそう、この尼さんが出家するとすぐに、剃っても剃っても毎日伸びてくる頭の髪を剃ったり、俳句の販売係をやってくれたりする男性が現れ、尼さんはどこまでいっても女徳にあふれた人だったらしいのである。

 

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