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ココハ オカーサンノ オウチ

Pict0125  大阪に嫁いでいる、うちの長女とその子・ケン(仮称でござる)が、せんだって40日も我が家に逗留しゆっくり遊んでいった。今思い返せばいろいろと楽しいことがあった。

 二歳になったケンは、かなりおしゃべりができるようになっていた。「パパト ママト ケンチャント 三人デ ヒコーキ ノッタ」というようなことをなめらかに言うのだった。

 ところが娘が言うには、生まれてこのかた、「ありがとう」と「ごめんなさい」を一度も言ったことがないというのだ。 それはゆゆしきことだと、私も「ごめんなさいは?」「ありがとうは?」と事あるごとに強要するのだが、ケンは口をへの字に結んでぜぇったいに言おうとしない。その強情さはお見事!というほかはない。それでU字工事の“ごめんね ごめんね~♪”を教えたところ、これは気に入ったとみえ、一発で覚え喜んで言うようになった。けれども「ありがとう」はついに言わなかった。“ありがと ありがとぉ~~♪”を教えれば言ったかもしれないが、そんなにふざけた調子では、誰も感謝されたとは思わないだろう。

 ある日のこと、わたしとケンはオソトで1時間ほども遊んで、仲良くお手々つないで家に帰ってきた。娘がいる部屋の前までくると、ケンはにわかに私の方へ向き直り両手を広げた。ムッ、な、なんなのだ、それは。それはおそらく、オイラとおかあちゃんの部屋へ入るべからず、という進入禁止のポーズだったのだろう。「あら、べつにィー いいわよォー わたしゃ忙しいんだからね、お部屋にはいらなくても結構よ!」などと大人げもなく言ってしまったのだったが、ケンとしては自分たちのテリトリーにズカズカと侵入して欲しくなかったのだろう。

 この頃、私たちは、あの時ケンがああ言った、こう言ったと、言い合っては笑っているのだが、ケンが残していった語録の中で、一番の傑作は「オカーサンノ オウチ」だろうか。このオカーサンはケンにとっては、おばあちゃんである、この私のことである。ちょっと説明しておきますと、ケンはこのワタクシ・なぎさのことを「オカーサン」と呼んでいた。というのは娘が私のことを「おかあさん」と呼ぶので、それにならって、オトーサン、オカーサン、オニーチャン、オバーチャンなどと呼んでいたのだ。

 そういう次第であるのだが、ある日のことである。娘とケンが、よそから帰ってきて我が家の玄関に入ったとき、娘がケンに訊いたそうだ。「ここは誰のおうち?」するとケンは「オカーサンノ オウチ」と言ったというのだ。娘からそれを聞いて私は内心驚いた。二歳児にも真の実力者はわかるものなのだね?ここがオバーチャンノ オウチでもなく、オトーサンノ オウチでもなく、オカーサンノ オウチ、であることが。それで私は時々、いやひんぱんに夫に向かって言うことにしている。

 ミー 「ここは誰のおうち?」   夫「・・・オカーサンノ オウチ」

 ふ~~やれやれ苦節ン十年、やっとこの家 乗っ取ったかぁー、別に要らないけどね。ちなみにケンは迎えに来たパパとママとケンの三人で、大阪の自宅に帰っていったとき、玄関で娘が「ここは誰のおうち?」と訊いてみたら、「ケンチャンノ オウチ」と言ったそうである。二歳児の頭の中にも所有の概念はしっかり根付いているらしい、、、、。                        

 

 

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そは長き戦いにして

Pict0108 (つづきまして)さて、クレオパトラは術策権謀の人と呼ばれることもあるそうで聞こえは悪いが、それはいたしかたないことのように思われる。というのは弱小国が沈没せずにすむためには、どんな悪知恵も働かせないことには一国の運命はたちいかないのであった。

 宮尾登美子著『クレオパトラ上・下』を読むと、残念ながらクレオパトラがバラの花びらを浮かべて入浴するシーンはなかったが、演出効果を狙ってバラの花びらを使う場面が二ヶ所あった。

 シーザーがローマへ戻りしばらくして、クレオパトラとその子(シーザーの子でもあるのだが)をローマへ招待したことがあった。瀟洒な別荘を与えられ国賓級の扱いではあるけれど、シーザーにはれっきとした正妻が控えているのだから、立場は微妙なものであった。そんな中、シーザーはどうしても出征せねばならなくなった。

 出陣の前、晩餐に訪れたシーザーをもてなすためにクレオパトラがしたことは、豪華な食卓を用意することはもちろんのこと、わざわざエジプトより大量のバラを取り寄せ、二人の使うベッドを厚さ10センチに盛り上げて、バラの花びらでおおったのだった。そのふくいくたる香りが部屋中に満ちみちていたという。そこへクレオパトラは、まとった薄絹をさらりと脱ぎ捨て身を横たえる。その後舞い上がり舞い落ちたおびただしい花びらは、いずれ召使たちの手によりかき集められ、、、、、のちには立派な堆肥になったことだろう。(こんな事は宮尾さんは書いてませんが)

 その後シーザーは暗殺され、クレオパトラは世闇に紛れて命からがらローマを脱出、エジプトへ戻る。次なるローマの覇者となったアントニーを、武力ではなく女の武器で陥落させるためにクレオパトラがしたことは、自分の女王船をみやびらかに飾り立て、アントニーが足を踏み入れる床を一面、バラの花びらで埋め尽くしたことであった。花びらが靴にまとわりつかないように、目には見えねど薄いネットが張られていたそうである。山海の珍味を堪能したあとは、さぁどうぞこちらへ、、、香をたきしめたベッドルームへといざなうのだった。

 そんなこんなの涙ぐましい努力にもかかわらず、クレオパトラが身を挺して守り抜こうとしたプトレマイオス王朝は崩壊してしまった。思えば快楽は少なく、制約の多い生涯ではあった。初めてシーザーに出会ったときクレオパトラは言った。「ギリシャの哲人の言葉に“おのおのの一生は戦役なり。そは長期にわたる多事多難なる戦役なり”という言葉があります。私はそれを生涯旨とし、女王として戦うことを自分に課してまいりました。」 

 なにやら家康の人生訓を思わせるが、私はこれを書き出し机の前に張ることにした。朝、目が覚めたら「さっ、今日も戦争だ!」と気合を入れて起き上がるのだ。誰かがやさしく前からも後ろからも護ってくれるとは限らないのだから、多事多難な一日を今日も戦争だーい、と思い定めたら、ココロは幾分ラクになるような気がしてきたのだ。

 『クレオパトラ上・下』の巻末をみていたら、参考文献が小さな文字でえんえん4ページにわたって書いてあった。ローマやギリシャ、その周辺の国々の歴史書はもとより、『暗殺の辞典』『毒の話』『占星術』「古代エジプトの性」『ファラオの秘薬』『古代の船と航海』etc、、、。作家がこれだけの膨大な資料をつぶさに読んだとは思わないが、たとえ斜めに読んだにしろ、一冊の本を書くということは、これは大変なことだということがわかる。それにまた現地へ赴き、そこの光や風を味わい遺跡なども観る、ということも必要だろう。ところで私は『クレオパトラ上・下』二冊を読んで、このブログの記事をやっとのことでひとーつ、書きました^^

 

 

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