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『あかちゃんのドレイ』

Pict0116 娘の愛読書に『あかちゃんのドレイ』(大久保ヒロミ作)という漫画本がある。それを我が家に置いていったので、ちょっとばかり読んでみた。あとを引くおいしさ、ではなくおもしろさでなかなか止められない。あかちゃんのいる日常生活のなんでもない話題を描いてあるのだが、そうそう、わかるよ、家に小さい人がいると、そうなんだよねーと共感することばかりなのだ。ドレイのごとくに小さな王子様 王女様に振り回されているヤンママの忙しさ、苛立ちや心理が巧まざるユーモアでもって描かれている。 それでも作者はこうして漫画を描く時間を捻出しているのだからエライものだ。 うちでは娘も私も、たった一人の子供のことで気もそぞろで、何をする余裕もなくマゴに翻弄されかく乱されていたものだ。(ブログもほとんど書けなかったデス)

 マゴがうちにいた頃のことだが、子供というものはどうしても外へ出たがる。オソト、とはまだ言えなかったがウンウンと大人の手を引っ張って散歩へ行こうと要求する。まだ家の用事がすまないうちは、散歩になど行きたくないのだけれど、自分の靴を差し出して、さ、はかせて、とつぶらな瞳で見上げられたらもうお付き合いしないわけにはいかない。

 五分ほど歩くと、バスの整備工場がある。常時10台ほどのバスがとまっていて工場の人たちが忙しく立ち働いている。それを金網ごしにバ!バ!(バスのことです)と言いながら張り付いたように離れようとしない。これをやっとのことで引きはがし少々歩くと次は三叉路に出る。いちおう国道なので交通は頻繁で、大好きな車が次から次にやってくるものだから、右を見て左を見て、ブーア!ブーア!

 私たちがクルマと言うのでクルマと言っているつもりが、ブーアとなるようだ。 30分もそこにいれば排気ガスでだんだん眼もチカチカとしてくるし、家のことも気になるしで、早く帰りたいのだけれどこれまた離れようとしない。

 こういう事態になると娘などは携帯で「誰か連れに来て~この子が動かないの~」とかよく言ってきたが、そうすると私などは「そんなに子供の言いなりになってどうするの、しっかりしなさい!」と気合をいれたものだ。それでもなかなか帰ってこないので様子を見に行くと、マゴは大地にへばりついてまだ帰らんぞ、と抵抗しているのだった。

 「モォッ!いい加減にしなさいっ!」とジタバタするマゴを小脇にひっかかえ、問答無用とばかり連れ帰るのだったが、ある時、マゴが私たちを真似て「モォッ!」というのには笑ってしまった。口癖みたいにモォッ!を言っていたらしい。

 そんなことどもを思い出していると、娘から電話があった。「おかあさん、そちらから送ってくれてる荷物、何時ころ届くの~?」どうして~?と訊いたらば、マゴが散歩に行くと自分で決めていて、一人でバギーに乗っているのだという。留守中に荷物が届いたらいけないと思ってたずねてきたのだ。荷物は夕方届くように指定してあるので心配はないのだけれど、私にはマゴがあっちに行け、こっちに行けと指差す方に、ハイハイとバギーを押す娘の姿を想像すると、おかしさがこみ上げてきたのだった。

 娘とマゴが帰っていって、我が家も静かな暮らしが戻ってきた。マゴはなにかひとくち食べると、ニコニコしながら「ウマっ!」と大きな声で言っていたものだ。たいしておいしくないものでも必ず機嫌よく ウマッ!と言っていた。それにならい私たちも今、何かひとくち口に入れたらウマッ!と言ってみては王子様におつかえしていた日々のことを想うのである。

 

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高台寺 ねねの小径

 Pict0133_3                                               去る11月11日、京都にある秀吉の正室 寧々ゆかりの寺 高台寺へ行った。その日、京都は朝からずっと雨が降っていたそうだが、私たちが着いた夕方にはすっきりと雨も上がり、すばらしい景観を味わうことができた。

 寧々が大阪城を出て身を寄せた寺はひそやかなたたずまいの小さな尼寺であろう、というイメージをもっていたが意外にも、堂々たる、かつ優美なお寺であった。家康のてこ入れもあったであろうが、よほどの健脚の持ち主でなければ一通り見て回ることはできそうもない規模の立派な造りであった。

 高台寺のライトアップはきれいですよ、と以前から聞いていたのだが、噂にたがわず照明はすばらしく、竹林のライトアップなどはオォ!と息を呑むほどであった。(けれど残念ながら写真はうまく撮れず、かわりに地下鉄難波駅構内の水槽の魚の写真をアップしておきます(-_-;) )  ただ一ヶ所、それは石庭であったが、街中のネオンサインを思わせるようなヘンな取り合わせの照明があって、これはイタダケナイナーと思っていたところ、周りの人たちからも、興ざめ~~という声があがっていた。

 秀吉と寧々が尾張弁でふつうに話していても、周りの人たちはけんかが始まったのかと思うほどのけたたましさであったそうだが、二人が本気で夫婦喧嘩をやりだすと、近隣に響き渡るほどの怒鳴りあいになったという。しかし寧々はいざ戦さとなると、借金をしてまわり、戦費を調達した。なんでもどうでも戦さに負けるわけにはいかないのだ。寧々は何もないところから豊臣家を興し、夫の立身出世をサポートした大功労者であったのだ。

 それなのにそれなのに、大阪城は淀君とその息子に乗っ取られたも同然で、糟糠の妻は顧みられず、わりの合わない思いの寧々であったろう。

 掌美術館というところには華やかな文物が様々と展示されていたが、その中で私の眼を引いたのは、寧々がはいていた物かもしれない、という白い足袋であった。それは絹でできているようだったがいささかうす汚れていた。けれどそれは妙に生々しく、寧々という女性がこの世に実在し、あの戦乱の時代を生き抜いたのだ、と納得させるのに十分な迫力があった。ふつうの家に生まれた、なんでもない一人の女が北政所と呼ばれるようになり、この世の栄華も悲惨さもつぶさに見たのであろうと感慨を持った。

 けれども豊臣家の一族が全滅していくなか、家康の手厚い厚遇を得て寧々は生き延びることができたのである。秀吉も死後この寺に祀られ寧々はその冥福を祈りながら亡くなったということである。あの世では秀吉も奥方に頭が上がらないのではないだろうか。家康よりも長く生き、享年76歳であったという。

 寧々が万感の想いを抱いて歩いたであろう道(ねねの小径)があると聞いたけれど、私たちにはもう時間がなくて高台寺をあとにした。今度は夜ではなく昼間の明るい時間に、ゆるゆると見て回りたいものである。週末でもないのに人出は多くて、立ち止まっているゆとりもなかった。なんだかよくわからないうちに押し出された、ような気分だったのだ。

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