それは 口が言うだけ
久しぶりに会ったK子さんは浮かない顔をしていた。そして言うのだった。年金も貰えるようになったことだし、そろそろ離婚したいのだと。でもねー、離婚したらこのうちがなくなってしまうでしょ、そしたら子供たちが帰ってくるうちがなくなるということだから、それが辛いのよねー、と言った。
さて私は家で夫に「K子さんが離婚したいんだってー」と話した。すると夫は「それは口が言うだけであって、内心は離婚したくないのだから、もっとよく話を聞いてあげれば」と言うのだった。
何日かたって、私はマドレーヌを焼いた。万事につけおおまかおおざっぱの私は、こまごまチマチマと個別に作ったりはしない。いつもドカーンと大きなかたまりで焼くことにしている。その半分を持って、K子さんのうちに行くことにした。
K子さんはやつれてぼんやりした顔で玄関に出て来た。夜中ずっと眠れなくてコタツで悶々としていたのだという。ご主人は今なにをしているのー、と訊いたらば、屋根の修理をしているのだという。
この寒空に屋根の修理をしてくれるなんて、有難いことではないの。よそのおじさんだったら、絶対してくれないところよー。もっと感謝しなくちゃ。そういえば、とK子さんは言った。「もう何十年も、ありがとう なんて言ったことないような気がする」と。
それで私は言った。「ご主人が下へ降りてきたら (とハーフムーン・マドレーヌを差し出し) 寒かったでしょう、これでお茶でも飲みましょう、と熱いコーヒーでも紅茶でも淹れたらどうかしらー」
「言いたくないけど言ってみる」とK子さんは言った。
それから何日かたって、K子さんはバイクに乗って我が家へやってきた。皮が赤紫色の大根を三本持って。この赤い皮をした大根が大好きで、毎年たねを蒔いて育てているのだそうだ。これからおいしいコーヒーを買いにいくのだと言っていた。バイクにまたがるとK子さんは振り返って言った。「このあいだはありがとね、きっかけを作ってくれて」
……ということは。あれはやはり くちが言うだけだった、ということなのねー。赤紫色した大根は皮をむいたら、ふつうの白い大根でした(^_^)v
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