秋の霜のおかすべからざるごとく
『日本外史
』を著した 頼山陽の母 梅颸(ばいし)はなかなかの苦労人であった。山陽(幼名久太郎)は当時のものさしでははかれない規格外の子であり、両親の理想には程遠く心配の種がつきない問題児であったのだ。
そのうえ我が子ばかりでなく、人の子まで何人かを育てねばならない巡り合わせであり、今のように紙おむつや粉ミルクがあるはずもない時代であったから、並大抵の苦労ではなかったのである。もっともなにかと便利な現代においても、小さな子供を育てるということは、並大抵なことではないのだが。
夫の立身出世は喜ばしいことではあったが、長々と江戸へ出向を余儀なくされ、真面目に勤めているのではあろうが、実際には一体なにやってんだか、、、たまに短い便りがあるくらいでは皆目わからないのであった。
梅颸はその寂しい胸の内を、大阪で暮らす父の義斎(町医者の傍ら儒教を教えていた)に手紙で訴えた。それを読んだ父は急いで返事をしたためた。父は儒官の妻としての心得を娘に今一度、言い含めておかねばならぬ、と思ったのである。以下はその『父ヨリ教訓の文』の抜粋である。
“…どふで侍の妻となりては、町人百姓のような根性下げては、役に立たず。侍の妻とて、人に貴ばれ、敬はるゝからは、、かくべつな所なかればならず。かくべつな所とは、道をまもりて、勇み剛きにあり。ぐにゃぐにゃなきづら、人に見すべからず。みれんな事、人に聞かすべからず。秋の霜のおかすべからざるごとく、りんぜんと、すずしく、立ち上がるべし。かりにも、よわきなみだ、もろき根性あるべからず。心と心をとりなをし、気で気を引き立て、うれいの思ひあらば、うたふて心を散ずべし。”
父は悩める愛娘に、人に愚痴をこぼしたり、泣き言を言ったりすることをいましめ、いろいろな思いがある時は、歌を詠んで気持ちを発散させること、自分ひとりの力で、凛然とすずしく立ち上がれ、と諭したのであった。
さて現代の我々の世代の親はどうであろうか。娘が嫁ぎ先で苦闘していると聞けばどう反応するのだろうか。「まぁまぁ、そんなに大変だったら、早くうちへ帰ってらっしゃい」と言ってみたり、孫でも連れてこようものなら「ハイハイ、おばあちゃんですよ、これから、このおうちで仲良くくらしましょうねー」などと言うのではないだろうか。
いやいや、そんななまぬるいことを言ってはいかんのだ。あっぱれな義斎とうさんの精神を見習って、娘には断固とした態度で教訓を与えねばならぬ。「秋の霜のおかすべからざるごとく、りんぜんとすずしく立ち上がるべし!」
しかし義斎とうさんはこのような事も娘に伝えている。“世の中に道より外は何事もすっぽらぽんのぽんにしておけ” 守るべきことは守らねばならないが、その他のことはたいがいにして、人生を楽しみなさいと言っているのである。
梅颸は夫に先立たれ、娘にも先立たれ、山陽にも先立たれるという悲劇に見舞われる。そのうえ老齢になってもなお、孫やひ孫の養育に追われたのであるが、さまざまな苦境をみごとに乗り切ることができた。問題児であった息子 山陽は世に認められ、愁眉を開くことも出来たのだった。人生の重大な局面で、父の慈愛あふれる教えが娘を救ってきたのではないかと思うのである。
見延典子著 『すっぽらぽんのぽん』より
| 固定リンク | コメント (10) | トラックバック (0)



最近のコメント