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幸福の黄色いスイカ

_049 _047_2 黄色いスイカを42個、産出したスイカ畑を視察に行ってきた。タタミ12畳くらいのなんの変哲もないスイカ畑。

それでもゴロゴロとスイカが転がっていた。畑の両端には太さも長さもまちまちの竹が差し込んであって、それは台風が来ればひとたまりもなさそうに、はかなげに立っていた。(今年はまだ台風はきてなくてラッキーだった。)

 竹と竹の間を黒いナイロンの糸と、透き通ったつり糸が適当に張られていて、真ん中へんでは、たら~りと垂れ下がっていた。その糸の間隔も高さもまことにいい加減で、これがほんとうに、カラス除けになったのだろうか、と半信半疑なのであった。

私は、畑の持ち主 H さんに言ってみた。カラスはこのスイカ畑のこと、知らなかったんじゃない? それでつつきに来なかったんじゃないかと思うケド。 すると Hさんは断固として言うのだった。カラスは確かに知っていた、けれどなぜだか近寄らなかったのだと。

 まぁ、いいや、どっちでも。実は Hさんが畑にあるスイカ、もう家ではいらないから全部なぎささんに差し上げます、9月半ばまでに貰っていってね、次の段取りがあるから、、、と言うのだ。

 いっぺんにスイカ長者になってしまってどうしましょう?ざっと数えても15個くらいはあった。うれしい悲鳴ってこういうことね。ほんとに黄色いスイカは幸福のスイカ。

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血はカオルのか?

ずっと前のことだけど、テレビで料理番組を見ていたら、板前さんが、カツオを捌きながら言った。「こういう血のカオリのするものはですね~。」 オイオイ、血はカオルのかい?と私は言いたくなった。まぁ、料理人さんはテレビカメラの前で舞い上がっているのかもしれないから、ユルシテあげよう。

しかし、そばに立っているアナウンサーが、いつもいつも鍋の中で煮え立ってきたものを見て「あっ、いいカオリがしてきましたね~。」というのは感心しない。ふつう、いい匂いがしてきました、と言うんじゃないかなー。

それからある時、誰か知らないけれど若い女のタレントが、タラバガニを大きな口の中に放り込みながら言った。「わぁ~っ、甘くていいカオリ~ィ」  あらあら、このごろじゃぁ、タラバガニもカオルのね。

テレビを見てると、誰も彼も、カオリ、カオリというもんだから、嫌になってラジオを聴いていた。するとホラキタ、DJの女が言った。「私って、糠みそのカオリが大好きなんです~!」(誰もあなたの嗜好など聞いてません!)

どうしてこうみんな、カオル、とか カオリと言って、匂う、匂い、と言わなくなってしまったんでしょう。カオル、カオリの方が、匂う、匂いという言葉より、ずっと上品で美しい言葉だと思うようになったのかな。

私の感覚では匂い、匂う、の守備範囲はかなり広いのでたいていの場合使える。けれど香り、香るの使用範囲はかなり限定される、と思うのですね。だから注意深く使わないといけないんじゃないかしら。

言葉というものは世につれ、人につれ、その使い方も意味合いも、移り行くものだということは、私にだってわかっておる。けれど匂い、匂う、と言う美しい言葉が 「21世紀初頭まで使われておりました」 ということになれば悲しい。

それにしても‘匂う’という言葉、とってもいい言葉だと思う。ほら、あの有名なあの曲 「夏は来ぬ」にあるでしょう。

♪卯の花の匂う垣根に  ほととぎす  早やもきなきて…                  

この歌詞の‘匂う’ にはそこはかとなく立ち込める卯の花の匂いが、ふんわりと包み込んでくれるような優しさが感じられると思うのですねー。これは‘香る’ではどうしても代用できないと、おもうんですけど。(なぎさの遠吠えみたいに聞こえたかなー。)

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名も知らぬ遠き島より

島崎藤村は、友人から、海岸に流れ着いた椰子の実の話を聞き、その実物を見ることなく、『椰子の実』の詩作をしたそうである。今、その『椰子の実』を読み返してみると、詩人の想像力と感性に畏れ入ってしまう。

私はY さんとは面識がなかったけれどある短歌集に寄せられた Y  さんの短歌を読んだことから、Y さんの人となりや生涯をいくらか知っていた。

Yさんはいわゆる戦争未亡人であった。夫は Y さんの住む小さな入り江から出征していき、二度と帰ることはなかったのである。 Yさんは来る日も来る日も浜に下りて夫の帰りを待った。戦死が決定的になってからも浜に下りずにはいられなかった。

そしてある日のこと、Y さんは浜に流れ着いたひとつの椰子の実を見つけたのだった。それを大切に持ち帰り仏前に供えた、という。Y さんにはこの椰子の実とともに夫の魂が帰ってきたように思われたのではないだろうか。

  生涯を忘るるなけむ遺児抱きて

         還らぬ君をひた待ちし夏  (Yさんの歌である)

Y さんは少しの野菜を作ったり、短歌を詠んだり、奈良や京都のお寺巡りをしたり、遠いところではドイツの西本願寺(だか東本願寺)のお寺に参ったりして穏やかな晩年を過ごされたということだった。

私は今朝、近くの83歳になるおばさまに、このあたりの五島の海に、椰子の実が流れ着いたことがありますか、と尋ねてみた。おばさまは、ずーっと前、何十年も前に一度だけそんな話をきいたことがあると言っていた。その椰子の実は Y さんが拾い上げた椰子の実ではなかったかと、私は思った。椰子の実が漂着した話はほかには聞いたことはないのである。

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今年のスイカはよいスイカ

_036 この夏、我が家ではスイカの苗を二本植え、1個だけ収穫した。写真手前の恥ずかしそうなピンク色したのがそうである。あと一ヶ月くらい畑に置いていたほうがよかったんじゃないの?と皆から言われたけれどもう遅い。

スイカ栽培にチャレンジして二年目、という方が、沢山獲れましたから~、と言って3個持ってきて下さった。切ってみたらワォ! 黄色いスイカだった。まず17個収穫して、あと二番生りというのが25個、畑で育っているそうである。全部で42個! 24センチのお皿に乗りきれないくらいだけれど、すべてのスイカが5キロから8キロあるそうである。

このスイカを作った人、Hさんはもと看護婦さんだった人でとても研究熱心な人である。はじめの年はたったの一個だったけれど、なんとかおいしいスイカを作ろうと手当たり次第に本を読み、自分の母親がしていたことなども参考にしてあらゆる努力を惜しまなかった、ということだった。

まず土作りが大切だとばかり、山へ落ち葉を拾いに行き、背に背負ってヨイヨイと下りてくる。カヤがいいと聞けば、リヤカー引いてカヤを切りに行き、みずから引っ張ってくる。私たちは Hさんがみるみる日焼けをして、黒い顔になっていくのをいつも見ていたのだった。

どんなふうにしてカラス除けをしたかというと、H さんは黒い糸を張り巡らしたそうである。なぜかカラスは黒い糸が嫌いらしい。それで一個の被害もなかったということだった。

栽培方法についてはネホリハホリ聞いたので、来年度にこれをキチンと実行すれば、我々だって42個の収穫を期待できるかもしれない。けれど道ははるかに険しい。(まず黒い顔になるのを覚悟せねばなるまい)  H さんは来年も上出来だったら、また‘大きいほうから3個’差し上げます、と言ってくれたので 「もう貰って食べることにしようかぁ~」、なんていう気にもなりかけている。

いただいたスイカは4つに切って、また切って8等分にしたものを、ご近所に配ったり、うちに来た人に差し上げたりしていたら、アララ、うちの分がなくなりかけていた。黄色いスイカってほんとうに珍しくてきれいで、みなさん「まーっ!」と感嘆の声をあげ喜んでくださったのだった。幸せの黄色いハンカチ、、ならぬ 黄色いスイカだねー。 来年、植えるとしたら黄色いスイカにしようかなー。

ウンニャ、うちの畑のスイカのほうが上等だわい!という方はどうぞ手を挙げて名乗りでてくださいね。どんなふうにして作ったかネホリハホリ、インタビューさせて頂きます。

書き忘れていましたが、H さんは二本、苗を植えたのだそうです。二本で42個だなんてすごい成績だと思いませんか?

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Mさんのしあわせ

 Mさんが病院を辞めて結婚すると言ったとき、私たちは、Mさんは社長夫人におさまるのだね、と思った。Mさんは手持ちの縁談が沢山あったのである。ところが意外にもMさんの嫁ぎ先が、病院のすぐ近くの農家であるとわかった時、私たちは「え?」と顔を見合わせてしまった。

 Mさんはそれまで病院の近くを散歩する時、その農家のご主人と立ち話をしたり、きゅうりや茄子など少々もらったり、癌で奥さんを亡くしているご主人を慰めたり励ましたり、そういうお付き合いがあったということだった。けれどまさか結婚しようとまでは、、、思っていなかったのではないだろうか。

 あの暑い夏の日に悲劇がおきてしばらくして、散歩を再開したMさんは、通りすがりに畑で仕事をしている農家のご主人の所へ行った。そして何も言えずに黙って立っていた。そのご主人もなにも言わずに黙々と仕事をしていた。そんな事が何回もあったのちにMさんは不意に「この人のお嫁さんに貰ってもらおう!」という気になった、ということだった。

 冬のある日、私は友達と連れ立ってMさんの新居を訪ねた。白衣を脱いだMさんは白い割烹着を着て、農家のおかみさんらしくなっていた。ご主人はと見ると、もうどこをケチつけようもなく立派な人だ、ということはすぐにわかった。私はしっかり見ていたのだが、Mさんがコタツに座るとき、必ず、ご主人のすぐそばに寄り添うように座るのだった。コタツは四辺あるのだし、人間は四人いるのだから一辺に一人座ればちょうどいいんじゃないの?とわたしは思ったんですけどね。

 元荒川の流れに沿った道を歩きながらMさんは言った。「うちの人ったらね、とってもやさしいの。近所の人もね、お釈迦様に輪をかけたくらい、立派な人だって言ってるのよ。」  Mさんの実家も農家で、お百姓仕事はちっとも嫌じゃないとMさんは言っていた。

 じつは私は一人で憤慨していたのだった。「アイツメ(←Mさんの元の夫のことである)、 Mさんのこと、ろくろく探しもしないでほかの女と結婚したりして、許さん!! 」 ……とこんなふうに腹を立てていたのだけれど、Mさんのとろけるような笑顔を見ていたら、もう怒りは雲散霧消、あとかたもなく消え去っていたのだった。

  今、Mさん生きて在りまさば、90歳前後のお年だろうか。凛とした素敵なおばさまになっておられるに違いない。 

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新潟美人のMさんのこと

 今から40年くらい前のこと、私は埼玉県のK市に住んでいた。K市はこの頃では東京のベッドタウンとして発展して、マンションが建ち並んでいるそうだけれど、当時は水田が広がる中を元荒川が悠然と流れ、両岸には葦が生い茂り、白鷺が優美に舞う、のどかな田園地帯だった。

 その川のほとりに親戚のものが経営する病院があり、私はそこの看護婦寮に住まわせてもらって大学に通っていた。その病院に婦長として働いていたMさんはとても美しい人で人柄もよく、きびきびと立ち働くさまはまるで白百合のごとく、年の頃は50歳前後だったろうか、魅力的な人だった。

 Mさんは‘待つ人’としても有名だった。Mさんの夫は出征したまま生死が確認されていなかったが、いつかきっと会えると信じてひたすら待っているということだった。病院のドクターや、世話をした患者さんがMさんのことを気に入って何人もプロポーズしたそうだが、バッサバッサと断り続けてきたのだそうである。「なんだかすぐそこで 生きてるような気がしてー。」とMさんは言っていた。

 そんなMさんが夏の暑い日に白っぽい日傘をさして出かけて行った。古い友達に会うのだと言っていた。そして帰って来たとき、Mさんの美しい顔は蒼白でその手は小刻みに震えていた。Mさんはなにも言おうとしなかったし、私たちもなにも尋ねなかった。

 その日の出来事についてMさんが語ったのは何ヶ月も経ってからだった。Mさんと友達がよもやまの話をしている時、友達は言った。「ねー、あなたは今までこうして一人でがんばってきたのにねー、彼ったらねー、さっさと結婚したりして!」

 Mさんは「彼って誰のこと?」と聞いた。すると友達は驚いて叫んだそうである、「あなたって、知らなかったのぉー?!」

 なんということか、Mさんの夫は戦地から戻ってきて、Mさんが働いていた病院、及び宿舎のあたりが灰燼に帰しているのを見て、もうMさんがこの世の人ではないと判断してしまったのだという。そしてほどなく結婚したのだった。そしてすぐそこ 、Mさんのいるところから電車で30分もかからないところに、新しい妻と娘二人とともに暮らしている、ということがわかったのだった。

 Mさんの友人たちは誰かがそのことをMさんに教えたハズ、と思い込んでしまっていた。けれど誰もMさんに教えた人はいなかったのである。しかもMさんと会って話をする時、深い思いやりの心から誰も、Mさんの夫の新しい家族のことについて触れようとしなかったのであった。Mさん一人が何も知らず、降るような縁談を断り続けながら待っていたのだった。

 その日のことをMさんは言っていた。「あの時ねー、まるで煮え湯を飲まされたような気がして涙も出なかったのよ。どんなふうにして帰ってきたのか、全然、覚えてないの。」  そんなことがあった数日前に、長い間、Mさんのことを待ってくれていた男の人に、やはり結婚できません、と伝えたばかりだった、とも言っていた。

 私は未練がましく言ってみた。「もうそのかたとはチャンスはないんですか?」  するとMさんは笑いながら言った。「もう、終わったことですからねー。」

(さてこの話には続きがありますがそれはまた今度、書かせて頂きます。)

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どこにもいないのでここに来る

_071 一年くらい前のこと、テレビで俳句の番組を見ていた私は、おもしろい句だなーと思って急いでメモをした。

   夫(つま)逝きて  どこにもいないので  ここ(墓所)に来る

このぶっきらぼうな感じが忘れがたかったのだが、時々このメモをながめているうちに、だんだんと作者の深い悲しみが伝わってくるような気がしてきた。作者は、夫がすでにこの世の人ではなく、どこにもいないことは頭ではわかっているのだけれど、姿が見えないのでついにお墓までやってくる、ということだろうか。

30数年前に五島にヨメに来た私は、女の人たちが毎朝こぞってお墓参りに行くのに驚き、少し呆れた。実家の方でも折々にお墓の掃除をしてお参りはするものの、毎日ヤカン持参でお参りに行く習慣はなかった、と思う。

けれどもこのお墓参りは義務でも賦役でもなく、一つの愉しみであることはすぐにわかった。お墓参りは大手を振って家を留守に出来るチャンスでもあるし、ついでに社交にもはげめる有効な時間なのである。私は「今朝、お墓で聞いた話なんだけどね」といった話をこれまでいくらも聞いてきた。

そしてまたお墓参りは、船乗りをしている、また漁に出ている夫や息子の無事をご先祖さまにお願いに行く大切な日課なのである。むしろこのお願いがあるからこそ人々は、朝な夕な、お墓に詣でる習慣を身に付けたのかもしれない。

驚くべきことにこの頃では私もすっかりお墓参り大好き人間になってしまった。喜こばしい出来事があればご先祖さまに報告したいと思うし、精神的に辛いことあれば、黙って水を取替え、お花を差し替えるだけで心は不思議と安らいでくる。お墓のいいところは、なにも言わなくてもいいことである。ここは魂が交信する所なのだから、いちいち説明は要らないし、黙っていてもご先祖様はわかってくださるのである。

お墓の在りようやお骨の扱いについて、いろいろな考え方があると思うけれど、今の私は、お墓もお骨も善きものかな、と思っている。

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♪私を月まで連れてって

_021_1 この前の水曜日は英会話クラスのS先生のお別れパーティがあった。先生は高校の英語教師として赴任していたのだけれど任期が終わり、オレゴンへ帰ることになっている。私は知らなかったのだけれどボランティアでクラスのめんどうをみてくださっていたそうである。

集まったのは大人15人、子供5人、でたいそうにぎやかなパーティだった。

場所は私の家から車で40分くらいの海水浴場。ログハウスが4棟くらい建っていて椰子の木が高々とそびえ、そこかしこにハマユウの花が咲いていた。

私達は夕方6時ころから10時くらいまでそこにいたのだが、中天には上弦の月(ハーフムーン)がのぼり、引いては寄せる波の音がザァーーッ、ザァーーッ。ここは昼間は沢山のサーファーが集まってくるという。わたしは外国になど行ったことはないのだが、どこか南洋の島にでも来ているような気分になっていた。こんな素敵な所が五島にあったんだね~と感心することしきりだった。

夜風に吹かれてビールなんぞ飲んでいるとジャズの名曲‘FLY ME TO THE MOON’ が浮かんできた。誰かが「是非、歌って!」とひと押ししてくれれば、酔ったふりして歌おう!と思っていたけれど、だぁれもなんとも言ってくれないのだった。今回は見送ることにしようか、歌詞もうろ覚えだから18番(おはこ)になるようにひそかに練習しておこうじゃないの。

その時覚えたフレーズ。ほんのひとくち=just taste

たばこをやめました=I quitted smokinng.

ビール党=beerer(ビアラー、これは和製英語らしい。)

Practice makes  Perfect.これは先生から我々へのはなむけの言葉。習うより慣れろ、ということ。

先生から住所やメールアドレス貰ったけれど、ちゃんと英文で書けるかなーと不安になった私達だった。もっとも先生はとてもカンがよくて、私達がしどろもどろで何を言っても「こういうこと言いたいのね」とすぐにわかって下さるのだった。

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