マイブームは佐々木常夫さん

Photo 佐々木常夫さんの『働く君に贈る24の言葉』という本を読んで、『運命を受け入れる』という記事をブログに書いたのは4年前のことだ。いい本だからもう一度読もうと思いながら忘れてしまっていた。

 そして先日、日経プラス10を見ていたら(私はキャスターの小谷さんファン)そこに佐々木常夫さんが出演しているのを見てブームに火がつき『ビッグツリー』などの他の本も読んでみた。

佐々木さんは今ではワークライフバランスの第一人者として、あちこちから講演の依頼があって八面六臂の働きぶりなのだが、そうなるまでには人知れぬ大変な道中があった。

 佐々木さんの奥様はさまざまな要因からうつ病になり、何年ものあいだ家事も育児もできなかったという。40数回にわたる入退院。自殺未遂3回。医療費もかさみ年間数百万円かかったという。

 一方ではご長男は自閉症で目が離せない状態だった。ふつう妻が元気だったら、家のことも子供のことも奥方にお任せで、自分は仕事に没頭できるのだろうが、佐々木さんにはそれが出来なかった。朝は五時半起床で三人の子供たちの朝ごはんと弁当を作る。自身も7時には家を出て八時には出社。夕方6時には子供たちの面倒をみるために会社を出ねばならなかった。ご飯炊きも洗濯も家事一切が佐々木さんの肩にかかっていたのだ。

 佐々木さんは二週間分の献立を冷蔵庫の横に貼っておき、それをながめては買い物の予定を立てていたという。常にノートを携帯し、あらゆることをメモし、無駄がないように効率よく動くことをモットーとしていたのだそうだ。

 家のことばかりではなく、佐々木さんは会社でも一人前以上に働いた。私は佐々木さんの『そうか、君は課長になったのか』という本を読んだ。佐々木さんは課長になると、過去一年間、部下がどんな仕事を何日かけて実行したかを分析したというのだ。昨年度の「業務報告書」をもとに、すべての担当者がどのような仕事をどのくらいの時間をかけてやったのかを調べ上げたのだそうだ。

 それで部下の力量はすべてお見通し。それからは業務ごとのプライオリティを明確にしたうえで、部下に業務を始める前に「計画書」を提出させることにした。私は会社勤めの経験がないのでよくわからないのだが、こんな上司を持ったら大変だろうなーという気がした。が、佐々木さんはのんびりと残業している訳にはいかないのだ。自分も部下も定時に退社できるよう、「計画性、効率主義、それを実践する」という三本の柱で乗り切っていったのだった。

 それにしても、佐々木さんは実に偉大なことを成し遂げた。長く暗いトンネルから一条の光明が差し込んできて奥様はだんだんと良くなりはじめ、10年目くらいに「今日は私が夕飯を作りますので」という電話がかかってきた。そしてある雑誌のインタビューの席で奥様は「この人(夫)からは実の親にも勝る愛情をいただきました」と述べ感謝されたのだそうだ。

 佐々木さんの本を読んで気がついたのは、私自身の計画性のなさ、ということだった。 外に仕事に行くでもないのに家のことだけでネをあげているこの頃。佐々木さんを見習って、計画的に、効率よく、今 与えられた仕事に全力を尽くしてみよう。今からでも遅くはない、自分で自分に計画書を出すことにしよう。

 

 

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なにかいいことありそうな

Img_20150125_1340111_2 去年の暮れのことだけれど、私にすれば天にものぼるようなラッキーなことがあった。

 私はお正月用の花を買うべく近くの花屋さんに行った。若松やら千両やら買ってレジにもっていき会計をした。2千円といくらかだった。スタッフのおねえさんが「では二回サイコロをふってください」といった。(千円で一回サイコロをふることができる)

  一回めはなんでもなかったが、二回目、なんと1⃣が二つそろって出たのだ。ジャジャジャジャーン!!「おめでとうございますー、大当たりですー!」  と言って渡されたのが左の写真のシンビジュームだ。

  実はこの店では毎年、暮れにはこのサービスがあるのだが、私は一度として当たったことなどなく、いつも活性剤のアンプルを一本か二本もらって帰っていたのだ。

  その店に一緒に行っていた友達は6⃣が二つ出て、小さなシクラメンを一個もらっていた。だから1⃣が二つそろって出るということは特別に素晴らしいことなのだ。

 

 そんな僥倖があった翌日、こんどはお歳暮として、黄色い花の立派なシンビジュームをいただいた。枝垂れていてなかなか豪華なものだ。(Vivian Yellow Shineという名前)

 

  その花を見た友達が言った。「黄色って金運アップの色よー。なぎささん、これからだんだんお金持ちになるんじゃない?」  お金持ちになる見通しは全然立たないが、2鉢の美しいシンビジュームを見ると、私は花長者になった気分だ。

 シンビジュームは日光と水と肥料を与えれば、ほぼ確実に翌年も咲いてくれる頼もしいランだ。株分けして地面に植えてもOKで、ふと気づいたらつぼみがたくさん出ていたりする。

  それにしても花の贈り物はいいものだ。食べ物の贈り物ももちろんうれしいが、「あー、おいしかった」でおしまいだ。けれど花は長々と楽しませてくれる。しかも見ているだけで心がほのぼのと温かくなって、これから先「なにかいいことがありそうな~~♪」気分になってくるのだから、何倍もオトクなのだ。

 

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見て見ぬふりをし、感じても感じないふりをする

Img_20150126_150913 私は精神科医の斎藤茂太さんの著作を少しずつ読んできた。茂太さんが亡くなったと聞いたときには、実の親と別れた時と同じくらいさびしく感じたものだ。

 今は土曜日の夜、九時前に放送される茂太さんの『いい言葉はいい人生を作る』をビデオにとっておいて見るのを楽しみにしている。

 

 先日の放送「夫婦の仲は、、、」はたいそう面白かった。茂太さんが言うには、家族関係は船旅に似ている、というのだ。(茂太さんは大型船でのクルーズが大好きだった)

 船旅で一緒になった人々と折り合って暮らすのはなかなか大変なことだ(そうだ)。いったん組み合わされると、もう逃げ出すことはできない。「やれやれ、いやんなっちゃうよー」と外へでればそこは大海原だ。

  家族の関係も一緒だ。離婚でもしないかぎり、組み合わされた人々となんとかうまくやっていかねばならない。そこで、‟見て見ぬふり、感じても感じぬふりをする”というウルトラCの技術が必要となる。

 しかし、見ても見なかったことにし、感じても感じなかったことにする、ということは簡単そうにみえて実は難しい。私たちはどうだろうか。日々の暮らしのなかで、見なかったこと、感じなかったことにして、心に決着をつけるまでに、一時間かかったり小半日かかったり、一か月かかったりするのだ。どうかしたら何十年前のことでも、見ました、感じました、と忘れられないでいることも多いのだ。

 しかし、何事が起きてきても、瞬時にスルーさせることが出来るようになったら、それは人生の達人であると言えるのではないだろうか。

 さて、近々わが島に『飛鳥Ⅱ』が寄港することになっている。飛鳥Ⅱに乗って世界一周の旅に出る、ようなことは生涯なさそうな気がするので、その5万2千トンの船の雄姿を「見るだけは見に行こう!」と思っているところだ。

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まゆみ

 奈良の町を歩いていると、商店や民家などの玄関先に樹木の鉢植えを置いている所が多いのに気がついた。イチョウ、紫式部、さざんか、柿など。草花もいいけれど、こういう木類もいいものだと思った。普段は家の裏に待機させておき、さぁ、若葉が美しく芽吹いたとか、つぼみが出てきたよ、という頃になって表に出せば、だいぶん手間ヒマがかからずにいいのではないかと思ったものだ。

  あるうちで、紅い実のついた木の鉢植えを見かけた。初めて見る木だ。根元をみると “まゆみ” と書いたプレートがあった。えーっ、これが “まゆみ”?

  じつは私はずっと前からまゆみのことは気にかかっていた。私の友達で万葉集に傾倒している人がいて、万葉集で詠まれている草花の写真集をカレンダーに仕立てたものを4年分贈ってくれたことがあった。計48枚の写真の中の二枚が“まゆみ”だったのだ。

  まゆみ 「ニシキギ科 大本類 落葉低木 花期は5~6月 淡紅色の花 実は赤紫色」という説明があるが、花や実よりも、その枝のしなやかさから、昔から弓の材料として重宝されてきたのだそうだ。

  みこも刈る 信濃の真弓 我が引かば 貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも

(信濃の弓の弦を引くように、わたしがあなたの手をとって引き寄せたなら、あなたは貴人ぶって、いやと言われるでしょうか。)

  白真弓 斐太の 細江の 菅鳥の 妹(いも)に 恋ふれか いを寝かねつる

 (ひだのほそえに住んでいる菅鳥が妻を慕うように、わたしもあなたを恋い焦がれているのでしょうか、どうしても寝つかれないのです。) 

  “まゆみ”はそんなはるか昔から、人々の暮らしと密接に結びついて生きてきたのだ。

 五島にかえってすぐに私は近くの園芸店に行った。まゆみはなかったけれど、「今度、仕入れに行ったときに見てきましょう」と店主は言ってくださった。

  店のなかに「ネコヤナギ」をみつけた。これは万葉集でも“カハヤギ”として詠まれている。

 

 山の際(ま)に 雪は降りつつ しかすがに この川楊は 萌えにけるかも

  (山 あいにまだ雪は降っていますが、さすがに春が近くなったのでしょうか、もう川楊は芽がふいていることです)

 

このネコヤナギは半額だったのでゲット。ピンクのネコヤナギもあって、これは貧弱だから差し上げますと。わーい!

  「クレロデンドルムウォリキー」、舌を噛みそうな名前だが、簡単に言えば「クラリンドウ」。これはまるで藤の花みたいな咲き方をして、一つひとつの花びらが、チョウチョみたいで、とても可愛らしいのだ。これも初めて奈良で見た。まよわずゲット。それからワレモコウ(吾亦紅)が売れ残っていたので、これも買うことに。

  そして二週間くらいしてまゆみが届いた。30センチくらいしかない楚々とした細い苗だ。まぁようこそ、と私はしみじみとその苗をながめた。これからこのうちで大きくなるのだよー。ある人に話したら、まゆみは挿し木で増やすことができるのだそうだ。ますます楽しみ。

  私は家の中にいてもまゆみのことが気になる。ちょっくら見てきましょうと、ついつい外へ出てしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今うとまれる歳になり

 図書館で『カミさん川柳』という本を見かけたので借りてきた。身に覚えのある句にであうとつい笑ってしまう。

 

   食卓に並べる前にかなり食べ

   冷蔵庫二歳の息子が足で閉め

   誰くるの?ぞうきんがけに子がたずね

 

   美しい人に夫が会釈する 

   たのしそう 何か買ったね おかあさん

   「無理するな」と夫次々用を言い

 

 さてわたしは断然この句が気に入った。

   朝ごはん やれ昼ごはん 夕ごはん

 

 選者のみつはしちかこさん(そのムカシ、小さな恋の物語、ハーイあっこです、などよく読んだものだ)はこの句に次のような評をよせている。

 ❝「やれ」が効いていますね。子供たちがお休みだと、お母さんは急に忙しい。くるくるとご飯の支度におわれているお母さんの姿が浮かんできて、大変だよねー。同情したくなります”

  そうだ、まだ若い母だったころ、たしかに長期の休みに子供たちの三度のごはんに追われ、早く学校が始まって欲しいと願った日もあった。

  だが私はこの句には、何十年ものあいだ倦まずたゆまず、ごはん炊きにはげんできた老いた女のふか~い疲労感を感じるのだ。一日に二食だった時代もあるそうだから、うちでもそうしたい!なんて思っていないだろうか。それがこの「ヤレ」によく表れているような気がする。

 さて次の句は衝撃的だった。

   うとんだ日 今うとまれる歳となり(三重 岡田政子)

 

 ごはん炊きに追われる日々というのは実は人生の華とでもいうべき、うるわしい時かもしれない。人はやがて老残の身をさらす時が来る。100回も同じことを言い、ついさっき食べたご飯のことも忘れ、排せつ問題もあやしくなってくれば、さんざんご飯を食べさせてやった子供たちでさえ、だんだんと疎ましく思うようになるだろう。

 このところ健康寿命という言葉をよく聞く。あの世に旅立つ日まで元気でいられたらいいのだが、そううまくはいかないようだ。日本人は平均して10年ものあいだ、病気になったり、入院したり、介護が必要になったりして人手を煩わせているというのだ。そのためにかかる費用が30兆円。10年は長い。寝付いたら、せめて三日くらいでご臨終となってあらまほし。

 男性の投稿もあり、そこはかとないユーモアが微笑ましい。

   かすがいの犬も出かけて間が持たず

   ペラペラとしゃべるが尻には紙おむつ

   満点の妻でないからくつろげる

   押し売りが来たので妻を呼びに行く

   お眼鏡にかなった嫁だが曇ってた

 

 シメにわたくしの句をひとつ。

  日に2食 提案するも却下され    なぎさ

 

 

 

 

 

 

 

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あをによし 奈良の都は

  若草山の山頂からは奈良、京都の市街地が一望できた。白っぽくみえる空き地のようなところは平城京の跡だと N さんは言った。たたなづく山々が幾重にもつらなって濃淡のグラデーションをみせている。

 あをによし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく 今さかりなり

 この歌は高校の時に習った歌だが、いにしえの人々もこうして山に登り、眺望を楽しんだのだろうか。大きなイチョウの木やカエデなどが紅葉して美しい景観だ。夜景も素晴らしいらしく、大勢の人が訪れるという。

 ちなみに五島の山は全然、紅葉しない。ところどころにハゼかなにかが紅くなっているのは見るが、一徹にミドリなのだ。

 あちこちの店やら案内所やらのぞいているうちに、私の手許にはたくさんのパンフレットが集まっていた。

     竹久夢二と大正浪漫の世界 (京セラ美術館)

     上村松園・上村松篁・淳之展「受け継がれる眼」  (松伯美術館)

     安野光雅 御所の花  (奈良県立万葉文化館)

     正倉院展  (奈良国立博物館) 

     

 あちらでもこちらでも、いろいろな催しや、展覧会がひらかれているのだった。奈良や京都に住んでる人はいいなー、うらやましい。それにひきかえ五島といったら。

 「奈良に住んでいてシアワセねー」と私は N さんに言った。「うーん、でも奈良には海がないからー」と N さんはやさしく慰めてくれるのだった、、、。

 うれしいことにN さんは、近々(いつになるかわからないが)友達をさそって五島に遊びに来てくれるという。何もないところだけれど、海だけは四方八方にあるので、海のアオと空のアオ、そして山のミドリを楽しんでいただきたいものだ。

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ならまち散歩 若草山

 私はこのあいだ、11月10日のことだが、大阪駅のホームでJR奈良駅行きの電車が来るのを待っていた。朝の8時頃から20分間ほど、ホームに立っていたのだが、どこから人が湧いてくるのか、と思うほどにワサワサとホームは人であふれ、けれどじきに電車のドアに吸い込まれ、誰もいなくなったかと思うとまた人であふれ、の繰り返しを見ていると、この人たちがもっと地方に分散してくれればいいのに、などと思うのだった。

 さてその日は、友人のN さんが奈良を案内してくれることになっていた。「どこへ行きたいの?」と訊かれても、私はどこといって特に行きたいところがあるのではなかった。N さんとどこかぶらぶらするだけでいいのだった。だったら“ならまち”へ行きましょうということになった。

 ならまち、というのは私は初めてだ。京都 奈良の神社仏閣は中学校の修学旅行いらい幾つかは行ったことはあるが、ならまちははじめて。元興寺の近くの駐車場に車を停めていよいよ歩くことになった。

 しばらく歩いていると、奈良市杉岡華邨書道美術館というのがあった。杉岡華邨という人は、かなの書においては第一人者といわれており、文化功労者にして文化勲章をもらった人なのだ。どうして知っているかというと、この人が再婚した女の人(杉岡和子さん)が書いた『一旦辞するにあたり』という本を1年前くらいに読んだことがあったのだ。さっそく入館して見学することにする。 会津八一をテーマに入江泰吉の写真と華邨のかな書の合同展なのだが、書も写真も息をのむような美しさだった。

 またしばらく歩いて、「ならまちからくりおもちゃ館」へ行った。江戸時代の人々の手作りの品々の意匠には感動する。知恵の輪に挑戦したが歯がたたなかった。スタッフの人からやってもらうと、なぁーんだというものだけれど。

 そのおもちゃ館はもとは、あるお金持ちの別邸だったというが、茶人だった持ち主の趣味で二畳ほどの小さな茶室があった。欄間を見ると、茶の湯の湯呑み、茶筅、なつめ、炭かごなどが彫りこまれ、なんとまぁイキでハイカラで高尚なことかと感嘆する。奈良は千利休より百年も前から茶の湯が楽しまれていた、ときいて驚く。

 実は私は9日に五島を発ったのだが、その前日の8日土曜日に『人生の楽園』という番組を見た。その主人公は、若いころから茶道に魅せられ、先生の資格も取り、定年後に抹茶とお菓子を提供する店を開いたのだった。それを見て私は、「これからまたお茶の稽古を始めよう」、とまでは思わないが、時どき、ささっとお薄を点てて愉しむのもいいなー、と思ったのだった。茶道具はもう何十年もお蔵入りになっているのだ。

 その抹茶の店はこのならまちの界隈にあるのだと気がついて探してみたのだが、店の名前も覚えていないし、路地は入りくんでいるしで、あきらめざるをえなかった。あとで“ならまちお散歩ガイドマップ”を広げてみたら、ちゃんと載っていたのだけれど、なぜかその時は頭がまわらなかったのだ。

 家に帰って、もう一度『人生の楽園』のビデオを見た。店の名前は“喫茶去庵”(きっさこあん)というのだった。ダンディーなご主人と、しっかり者の奥様が店を切り盛りしているのだ。いつかまた、ならまちに行くことがあったら、ぜひ行ってみたいものだ。

 そのあとN さんは若草山へのドライブに連れていってくれた。 この項続きます、、、。

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焼くな 埋ずむな 野にさらせ

 “ 我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ 痩せたる犬の腹を肥やせよ”

 (もし自分が死んでも、焼いたり埋めたりしなくてよろしい。野に放り出して痩せ犬に喰わせてやってくれ)

 この過激な歌を詠んだのは小野小町だ、というので私は驚いた。小野小町といえば、高校のときに習った 『花の色は…』で有名な歌人で、美女の誉れ高いエレガントな貴婦人、というイメージを持っていたのだから、おや小町さんはヤケクソになっているのだろうか、いったいこの歌はどうしたことだろうかと、たいそう気になったものだ。

 図書館で調べてみたら小野小町の研究書といったら数え切れないほどある。司書の方に選んでもらって、そのうちの3冊ほどを県立図書館から借りだしてもらった。

 小野小町という人は確かに実在したのだが、その実像は伝説の靄にかすんでいるという。清少納言や紫式部などの時代よりもっと前の、平安初期の人で、任明天皇の更衣だったのではないかと言われているそうだ。更衣といえば、帝(みかど)の後宮のなかではいわば末席の身分で、大部屋を几帳か何かでちょっと仕切ったくらいの部屋を与えられる程度だったらしい。

 その彼女が宮廷で行われる歌会に召され、だんだんと評判になっていった、というのは、彼女のたぐいまれな美貌と、歌を詠めばその抜群のセンスで、人々をうならせる才気と教養があったためらしいのだ。しかしその大胆な詠みっぷりは物議をかもすことになる。

   いとせめて 恋ひしきときは むばたまの 夜の衣をかへしてぞ着る

   思いつつ 寝(ぬ)ればや 人のみえつらむ 夢と知りせば さめざらましを

 更衣という身分で人を恋うる歌を詠むとなると、その対象は帝になるわけだから、まわりでは、「帝に向かって畏れ多いこと、非常識よっ」という声もあがれば、「それは別の男、きっと昔のイイ男よ」とか「仮想のオトコじゃない?」 「とりすましているけれど、あれで結構好色なんじゃないの?」などとあれこれ噂し、想像の羽根を伸ばしては言いたい放題で楽しむのだった。

 『出る杭は打たれる』というのだから、打たれないように、これからはでしゃばらずに引っ込んでおきましょうと、ひるむような小町ではなかった。皮肉のひとつも言われれば、すかさず返歌で応酬するというのが小町流。その時代では考えられないような積極性で恋の歌を詠み、選ばれて『古今集』にも収められたのだった。

 しかし、ねたみやらやっかみやらで、うるさいながらも華やかな宮廷生活は長くは続かなかった。帝がにわかに崩御なさったのだ。となると後宮の者たちも総入れ替えが行われる。小町もまた更衣の身分を失いハーレムを出ねばならなかった。

   わが身には 来にけるものを うきことは 人の上とも 思ひけるかな 

  (つらいことは他人の上に訪れるものと思っていたのだが、それが今、自分のうえにおとずれた。せつないものだ)

 さて退出して自由の身になった小町のもとには、次から次に求愛やら求婚の文(ふみ)が届けられるようになった。来る日も来る日も、それは小山をなすほどの量なのだった。思いついて、それらを糊でベタベタとはり観音像を作った。何体作ってもまだ文は届き、「いったいどれだけ観音像を作ったらいいのぉー?」と嘆くほどに、とめどもなく文は届くのだった。それでも、そのなかの誰かと結婚しようという気にはなれないのだった。

 しかし小町にも確実に人生の秋はやってきた。ちやほやしてくれていた男たちは、仕事や女房子供を養うのに忙しくなり、もう小町にかまっているヒマはなくなっていた。右に左に男たちをなぎ払ってきたというのに、今や男たちの影すらないのだった。そこで憂愁にみちた有名な歌が詠まれた。

   花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

   色見えで うつろうものは 世の中の 人の心の 花にぞありける

   秋風(台風)に あふたのみ(田の実 稲穂)こそ かなしけれ わが身むなしく なりぬと思へば

 だんだんと京の都にいづらくなった小町はついに京を出る。あちらの庵、こちらの庵と放浪することになったのだった。かなり長生きしたらしく、90歳から100歳くらいまで生きたのではないかと言われている。夫も持たず強力なパトロンも持たず、女の身一つで生きていくのは並大抵なことではなかっただろう。

 小町をめぐる伝説伝承は小町の没後すぐに始まり、鎌倉室町~江戸明治と様々な書物にも取り上げられ、謡曲や歌舞伎の演目として今なお引き継がれている。最近では内館牧子の脚本で、『ミュージカル小野小町』が上演されたと聞く。かつて宮廷で華やかな暮らしをしたこともある美しい女が、落ちぶれて各地を流浪したとなると、人々の興味は募り、たくさんの虚々実々の物語が生まれてきたのだろう。

 日本全国に「ここで小町さんは亡くなりました、ここが終焉の地ですよ、ほら、これがお墓です」と主張する所が30か所くらいあるそうだ。それは北は秋田県 湯沢(そこで出生し、没したという伝説があり、“あきたこまち”という米の銘柄がある) 西は山口県の下関にも立派なお墓があるそうだ。

 それにしても小町は誇り高く、いさぎよい生き方をしたのではないかと私は思う。誰にもよりかからず、もたれず、毅然として生きたのにちがいない。冒頭の歌にあるように、自分の臨終のときにも、だれにも世話になりたくない、野にさらしたままで結構、と言いたかったのだろう。(この歌は政権の変動で失脚したある皇后の歌とも言われているそうで、真偽のほどは闇の中だ。)

 これまで小町伝説として伝えられてきたものの中には、後世の人による創作であったり、とんでもなく脚色されていたりして、小町の真実の姿には程遠いものが混じっているかもしれない。それでも波乱万丈の生涯を送った小野小町という人が、人の心を惹きつける十分に魅力的な人だったということに変わりはないのだ。 

 スーパーのチラシを見ていたら、“千葉産 あきたこまち 新米 10キロ2880円 お一人様1袋限り 売り切れ御免”というのがあった。おぉ、こんなところにも小町さんは健在だ。小町人気は衰えることなく、ずっとこれからも人々の心の中に生きていくことになるのだろう。明日さっそく“あきたこまち”を買いに行こう。

 

    

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メマイの季節(その2)

 九月の中ごろのことだったのだが、私はひどいメマイにおそわれた。頭がくら~っとしたかと思うともう目がまわり、立ってはいられなくなった。目を開ければ天と地がひっくり返るし、吐き気もするしで、じっと寝ているほかはなかった。三日間は水を飲むことさえ出来なかった。それなのに半日に一回はトイレに行きたくなるのだった。

 で、いつになく低姿勢で夫に「トイレに連れていってください」と頼むことになる。うつむくと吐き気がするので仰向けのままズルズルとひきずってもらうことになる。ところが私の体重のあまりの重さに耐えかねたのか、廊下のなかほどでしばらく放置された。どうしたのかなーと思っていると、ゴロゴロと引っ張ってきたのは、ビールなど重たいものを運ぶときに使っているキャリーだ。

 その上にエイヤッと私の上半身は乗せられ、ゴロゴロ、下半身はズルズルとトイレまで引っ張られていったのだった。文句を言う気力もなく、それはもう死体になって運ばれているような気分だった。

 河岸のマグロのようにじっと横たわったまま、いろいろなことを思った。松下幸之助は“四百四病の病いより貧(ひん)よりつらいものはない”と言ったそうだけれど、本当にそうだろうか。ベッドを半分起こしてもらって、美味しいものをパクパク食べたり飲んだり、読みたい本を次つぎと読んで、というようなことができる病人なら大歓迎だが、ふつう病人といったら、熱があったり痛みがあったり吐き気があったりして、おいしいものを食べるどころではないのだ。メマイがすれば目も開けていられないから本も読めない。

 貧しくても健康だったら、一日の労働が終わったあと、おいしく水をのみ、ささやかでも「オイシー!」と言って食事をすることができるだろう。どんな病いより、貧のほうがいいような気がするのだけれど、どうなのだろう。

 欲も得もなく寝ているとき、豊臣秀吉の辞世の歌を思った。

  “つゆと落ち つゆと消えにしわが身かな  浪速のことも夢のまた夢”

 来る日も来る日も、あくせくと暮らしているけれど、死んで行く日には一体なにを思うのだろうか。なにもかも夢のまた夢であったよなー、という感慨を持つのだろうか。メマイくらいでは死なないと思ってはいるのだけれど、ずーっとこのままだったら死んだほうがマシ、と思えてくるのだった。

 四日目にやっと一人で歩けるようになり外に出てみると、鉢植えの私の可愛いい子ちゃんたちが瀕死の状態になっているのを見た。私がメマイで寝ているあいだ、外はカンカン照りで水切れになっているのだった。

 黄色い花がポッカリと咲いてかわゆいアラマンダ、大株になっていた初雪カズラ、ピンクの小さい玉が可憐なジュズサンゴ(数珠珊瑚)、めずらしいツバキの幾鉢か。ワ~~ンと泣きたくなるのを我慢して大急ぎで水やりにはげんだら、あ~ら不思議。メマイはどこかに飛んでいってしまったのだった。残念ながら初雪カズラは枯れてしまったのだけれど。

 この前メマイになったのはいつだったのだろう。たしかブログに書いたよね、と調べてみたらなんと奇しくも!ちょうど三年前の同じころだったのだ。ということは、三年後にもメマイが起きるかもしれないぞ。その時は、、、キャリーの上に一枚、毛布でも敷いてもらって、それから死体を、ノン まだ生きているはずだけれど、もっとゆっくりと引っ張って欲しいものなりと夫に頼んだことでしたー^^。

 

 

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90歳にして梅の木にのぼる

 朝からどんよりと身体が重くて仕事にならない、しかしここ一発どうしても元気を出さねば、というとき、私はちょっとばかりお高い栄養ドリンクを1本クーッの飲み干す。すると10分くらいたつと元気になったような気がしてきて、さっ、こうしてはいられない!という気がみなぎってきて身体が動くようになるのだ。まさにポパイのホウレンソウなみに即効性があるのだ。

 ただし、このドリンクのいけないところは、もうネンネしてもいいよ、という時間になってもなかなか寝付けないところにある。それに眠りが浅くなって頻繁に目を覚まし、したがって翌日は睡眠不足となるのだ。

 効能書きを虫メガネで読んでみると、カフェインになんとかに、とやっぱり神経を高揚させるようなものが沢山はいっているのだ。あんなの飲むのヤメヨ、と思いながらもつい手を出すことを繰り返し、だから私のヤクはやっかいなのだ。

 ところが先日、新聞を読んでいたら、元気なおじいさんおばあさんを紹介する欄があって、それを読んで私は驚いた。なんと90歳になるというのに、梅の木に登って実を採るおばさまが登場していたのだ。一人暮らしだが畑も作っていて、収穫したものを近所の人にあげるのが大好き。「さ、今度は何を植えてみんなを喜ばせようかなっ」と畑のレイアウトを考えたりして毎日が楽しいそうだ。

 畑を耕すときは耕運機を自分で動かすのだそうだ。「耕運機のほうがラクですよー。クワなんか使ってられません。腰のためにも耕運機のほうがいいのです」

 その90歳のおばさまの家は少しばかり小高いところにあって、毎日毎日上ったり下がったりしているのがエクササイズになって、元気にしていられるのかもしれない、とあった。

 もちろん健康食品などには無縁だそうだ。自分の畑で採れたものを自分で料理して食べる。それだけのことだそうだ。ちょっとへたばってくるとすぐに「あれ飲もう」と手をだすのがクセになっている私は恥ずかしくなってくる。

 れっきとした前期高齢者になって、ちょっとばかり暗澹とした気分になることもあるワタシだが、90歳になっても前向きに明るく暮らしている人がいることを知って、気分が一気に明るくなったのだった。

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